通夜と葬儀と告別式

本願寺新報 2015(平成27)年10月20日号掲載
眞壁 法城(まかべ ほうじょう)(布教使)

何がどう違うの?

カット 林 義明

私は現在45歳ですが、年齢のせいでしょうか、若い時にはあまりなかったお葬式や仏事についての質問や相談を、同年代の友人から受けることが多くなりました。

あるとき友人から、「お通夜とお葬式って、どっちに出たらいいんだ?」と聞かれました。「そりゃあどちらも出た方がいいけど、1回というならお葬式だよ」と答えると、「えっ、お通夜だけはダメなの?」と聞き返されました。

「本当はね。ただ仕事の関係とかでお通夜だけという人も実際増えたし、遺族としてもお通夜だけのお参りはお断りと言えないしねぇ」と返すと、友人は少し憤慨して「大体、なんでお通夜とお葬式と2回もあるんだよ。何がどう違うんだよ」とのご発言。最後の言葉は友人同士だからこそ出たのでしょうが、言葉に出さなくても、このことを聞きたいと思ってる人は意外と多いのではないでしょうか。

お通夜とお葬式の違いはいろいろとありますが、一番の違いは、通夜は生きていた方(の最後の夜)として接し、お葬式は亡くなった方として接するという点にあります。お通夜はもともと「夜伽」(よとぎ)と呼ばれ、身内の者が亡き方を生きた方として一晩中お世話をしていたことがルーツです。

お慈悲を仰げる場に

最近は仕事の関係でしょうか、本来は身内のみでつとめていたお通夜に、仕事の関係者などいわゆる一般参列の方がお参りされて、まるでお葬式のようにつとまり、一方で仕事を抜けてお参りしなければならないお葬式の方が身内ばかりで、お通夜のようにつとまるという逆転現象も起こっています。

私の同年代に聞くと、お通夜は一般参列を含めて皆が参るもの、お葬式は主に身内でつとめるものだと思っている人がけっこう多いようです。お通夜もお葬式も今や自宅ではほとんど行われず、葬儀会館で行われるという現実もこれに拍車をかけているのでしょう。本来は式ではないお通夜が通夜式と呼ばれたりするなど、いろいろな面で、お通夜のお葬式化を目のあたりにする機会が増えました。

一方で、お葬式に代わって告別式という表現が増えてきたように感じます。会場の看板には、「通夜式○時、告別式○時」と書かれたものも多く、お葬式の開式にあたっても、「葬儀並びに告別式を執り行います」という表現も珍しくありません。しかしながら、告別式とは明治時代に、葬儀の代わりに行われるようになったものが始まりですから、浄土真宗の作法にのっとるのであれば、普通に「葬儀を開式します」というべきです。

また、告別式とは、「別れを告げる式」ですが、浄土真宗の教義から言えば、この「別れを告げる」という言葉についても慎重であるべきでしょう。

親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり」(註釈版聖典135ページ)とお示しくださっています。亡き方はお浄土にいき、それで終わりということではないのです。お葬式は亡くなった方に別れを告げる場ではなく、お浄土での再会を誓う場であり、また、すでに仏となられた故人の、お浄土からの還相摂化(げんそうせっけ)のおはたらきを受けている場でもあります。

弔辞などでよくお聞きする、「お浄土でまた会える日を...」というお言葉も、もちろんその通りではあるのですが、弔辞を述べていらっしゃる方にとっての今という時間が、亡き方とお浄土で再会するまでの、ただただつらいだけの、辛抱の時間に終わってしまっているということであれば、私たちが宗祖のお心を伝えきれていないということでもあります。

ただ、これらの考えは浄土真宗の教義に基づくものではありますが、ご遺族がそのように感じているかは全く別の問題となります。日頃の教化活動も確かに大切ではありますが、お通夜やお葬式の場が決して教義の押し付けにならないよう、しかしながら、阿弥陀さまを中心にご安置するということに一本の筋を通し、その場にいるもの全員がともに阿弥陀さまのお慈悲を仰いでいけるような、遺族と僧侶にとってもっともよいお通夜やお葬式の形を考え続けていきたいと思っています。

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