人生の灯火

本願寺新報 2015(平成27)年12月 1日号掲載
河智 義邦(こうち よしくに)(岐阜聖徳学園大学准教授)

念仏者の生き様から

カット 林 義明

もうすぐ1歳9カ月になる娘と過ごす中で、ふとその言動や行動を興味深く観察してしまうことがあります。40代という年齢で授かったことや、職業柄も影響しているのかもしれません。このようなことを言ってる時点でイクメンでないことは確かです。

とにもかくにも、自分以外の他者を識別するようになっていく姿に関心を寄せています。

発達心理学的には、およそ6カ月頃から自分と他者、特定の対象(おもに母親)を区別するようになるといわれています。今の私は彼女からどのように識別されているんだろうかと気になります。それとともに、もうすでに「分別心(ぶんべつしん)」が育っていってるんだなとも感じます。

善導大師(ぜんどうだいし)のお書きになった『般舟讃(はんじゅさん)』に「仰(あお)ぎておもんみれば同生(どうしょう)の知識等(ちしきとう)、よくみづから思量(しりょ)せよ。却(しりぞ)きて受生(じゅしょう)の無際(むさい)なることを推(すい)するに、空性(くうしょう)と同時(どうじ)なり。同時(どうじ)にして心識(しんしき)あり」(註釈版聖典七祖編793ページ)という文があります。

難しい言葉が出てきますが、ここで大師は、私たちがいのちを受けたご縁の背景には、私たちが思議できないほどの、はかり知れない無限の歴史がありました(受生の無際)。またそのいのちは、永遠不滅の実体(本体)を有しているわけではありません(空性と同時)。同時に「心識(心の作用)」も形成されているといわれています。

大師はまずもって、身心ともに縁によって生まれ、無常の性質を抱えながらも縁のはたらきが相続されてきたことによって、今の私があるという、「いのちの真実」を思量せよ、とお諭しになられるのです。

闇に気づかない怖さ

生まれたばかりの子どもは、自己と他者との区別がない未分化な状態であるとされます。もちろんそれは、「自他一如(じたいちにょ)」と言われる智慧を得てさとりを開いていることとは違います。むしろ「個(自我)の確立」の準備段階と言えます。

生老病死(しょうろうびょうし)などの四苦八苦を生み出す原因を、12の項目によってたどっていく「十二因縁(じゅうにいんねん)」というものがあります。それによると、その根本原因は「無明(むみょう)」とされます。無明とは、縁起(えんぎ)や無常(むじょう)・無我(むが)といったいのちの真実、普遍の道理に暗いことを言います。

先師の説によって、そこから苦が生じる仕組みをうかがっていくと、暗闇で自分勝手に生きている状態であったため(無明)、誤った行いを繰り返して(行(ぎょう))、認識作用にも自分勝手な判断がまじり(識(しき))、認識対象である自他のいのち、さまざまな出来事などを錯覚して(名色(みょうしき))、認識能力までおかしくなってしまう(六処(ろくしょ))。つまり、認識すべてが不確かなものであり(触(そく))、不確かな認識によって、自分にとって楽か苦か、都合がいいか悪いか、などの思いが生まれ(受(じゅ))、楽という感受からはこれを激しく愛し求めようとする欲求が、苦という感受からはこれを激しく憎み避けようとする欲求が生まれ(愛(あい))、愛するものはこれを奪い取り、憎むものはこれを払い捨てるという行動が起き(取(しゅ))、そうした行動が蓄積され習慣化しているものが私たちの存在の本質であり(有(う))、その本質に基づいて、さらに新しい経験が生み出され(生(しょう))、次々に新しい苦悩が生まれるのである(老死(ろうし))、となっています。

これは、暗闇の中で自分の思いこみ(分別心)だけで考え、行動を起こすことの愚かさを教えてくださっているものです。一番怖いのは、自分が暗闇にいるということを認識していないことです。

親鸞聖人は『正像末和讃』に、
 無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
 智眼(ちげん)くらしとかなしむな
 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
     (註釈版聖典606ページ)

と示されます。

真実を持ち合わせていない私たちの心識に、阿弥陀さまは智慧の用(はたらき)を届け、さまざまな生活の出来事を通して、無明の自己に気づかせてくださいます。ご本願を人生の灯火とし、合掌の日暮らしを営み、お念仏の道をともに歩めればと思います。

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