かたちとこころ -よく聞く、心かよわせて生きていくために-

本願寺新報 2016(平成28)年4月10日号掲載
大田 利生(おおた りしょう)(勧学 広島県江田島市・大行寺住職)

切り離せない二つ

カット 林 義明

最近、こころにかかることがあります。それは、よく語られることですが、かたちとこころ、その関係ということです。取り立てていうほどのきっかけもないのですが、次のような場面に会いました。

私は、瀬戸内海にある島で住職をしています。ご門徒のうちにお参りしたときのことです。日曜日でしたので、子どもたちも一緒に正信偈をあげ、御文章を拝読し、法話を終えて玄関に向かいました。そして、履物に足をかけようとして、ふと後ろを向きますと、家族全員の顔がそろっていました。みんなで見送りに玄関まで来ておられたのです。それは当然だなどというつもりは毛頭ありません。ともかく、お互い心かよいあうような雰囲気、またお会いしましょうね、という気持ちさえ伝わってくるように思えたことでありました。

近頃、あまり見かけられなくなったように思います。姿が見えなくなるまで見送っている風景を。それだけ、世の中が忙しくなってきたということでしょうか。人間関係が希薄になっていくように思えてなりません。

このように、人を見送るということと、一方で迎えるということにも人のこころがあらわれるように思います。よくこの時期、歓迎するとか、歓迎会を催すといいます。迎える人のこころがあらわれていることばです。私たちは、迎え受け入れてくださる方がおられるから、知らないところにも安心して出かけることができ、滞在することができるのです。

このように考えていきますと、かたちとこころは決して切り離されるものではないように思えてきます。それは、かたちの中にこころを感じ、こころは、かたちを通してあらわれるものだ、と説明できそうです。

私たちは、よくこころが大事だ、こころが、こころがと申します。その通りだと思います。ただそのときに、かたちがどこかに忘れられているような気がします。また、先ずかたちから入っていくんだ、だからかたちを大切にしなければいけない、と声を大にして言う人もおられます。いずれも一方にこだわった言い方なんですね。そうではなく、こころは、かたちを通してあらわれていくものだ、こう認識していくことが大切なことといえましょう。

「愚」を深く味わう

ここに、かたちといいましても、ただ目に見えて形をとったものだけをいうのではなく、人間のことば、行為、あるいは芸術作品等にいたるまで含めてかたちと考えます。ですから、優しいこころがあれば、でてくることばもおのずからやさしくなるように、こころとかたちは分けられないものといえます。

いま、こころを「内」、かたちを「外」とおいて考えますと、親鸞聖人の『愚禿鈔(ぐとくしょう)』冒頭のおことばが浮かんでまいります。法然聖人の人徳に接し、その教えに耳を傾けることによって本当の意味でこの親鸞のこころが明らかになったということを最初に掲げられ、

 賢者(けんじゃ)の信(しん)は、
 内(うち)は賢(けん)にして外(ほか)は愚(ぐ)なり。
 愚禿(ぐとく)が心(しん)は、
 内(うち)は愚(ぐ)にして外(ほか)は賢(けん)なり。
   (註釈版聖典501ページ)

と続いています。ここに、こころの内面と外にあらわれる姿の関係性を、法然聖人と親鸞聖人の上で比較して示されているのです。

とくに「愚禿(ぐとく)が心(しん)は...」の文(もん)からさらに『大無量寿経』の教説が重なってきます。それは「愚痴矇昧(ぐちもうまい)にしてみづから智慧(ちえ)ありと以(おも)うて」(同70ページ)という文です。道理がわからず愚鈍(ぐどん)であるにもかかわらず、自分は智慧があると思っているという意味ですから。この文のこころを深く味わってみたいものです。

ともかく、私たちが心かよわせて生きていくためにはどうすればいいかということです。ただ、顔を合わせればいいということではありません。朝から晩まで一日中一緒にいても刹那(せつな)も会わず、ということばもあります。直接顔を合わすことは大事なことですが、そこでよく話し合っていく、その時、よく聞くということを忘れず、大切にしたいと思います。そんなことを思いながら、お参りした家の方と少しでもお話しする時間を持たねばと思うことです。

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