すでに道ありき -確かな依りどころをいただく人生-

本願寺新報 2016(平成28)年5月 1日号掲載
藤井 静蕉(ふじい せいしょう)(布教使 福井県福井市・専通寺衆徒)

病とのであい

カット 林 義明

幼い頃からたびたび、風邪をひいて扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れ、高熱が出ることがありました。昨年の秋にも同じような症状がありました。ところが、夜中に起き上がろうとすると、掛け布団が重いのです。さらに高熱があり、今までに感じたことのない強い痛みが全身を駆け巡りました。

病院で検査を受けると、「関節リウマチの可能性がありますので、早めに専門病院で検査を受けてください」とのことでした。数日後には、熱は下がり、体の痛みもすっかりなくなって、爽快な朝を迎えることができました。

一週間後、布教のご縁を終えての帰り道、ハンドルを握っている手に一瞬、こわばりを感じたのです。車を止めて安静にしていると治(おさ)まりましたが、今度はペットボトルのふたを開けようとしても、開けることができないのです。

体からの警告に危機感を覚えた私は、早速、専門の外来で精密検査を受けました。

「藤井さん、早期の関節リウマチです。現在は症状が出ていなくても、今後、強い痛みが出てくることも考えられます。今は、研究が進んで早期発見で、早期に治療を開始すれば、寛解(治癒)に至る患者さんも増えています。人によって、合う薬の種類も量も注射も個人差がありますので、定期的に検査をしながら副作用にもじゅうぶん注意をして、しっかりと治療していきましょう」と担当の医師。

私は、「早期発見」「寛解」という言葉に希望を見いだしました。治療を始めて半年が経過した頃から、体調が良好になって劇的に回復し、検査の結果が、それを裏づける数値になっていました。

しかし、これから先ずっと健康で、若々しく、死なない人生が永遠に続いていくことなどあり得ません。

人生の根本問題

お釈迦さまが説かれた仏教は、人間に生まれ、年老いて、あるいは病にかかり、最後には命を終える、という誰ひとり避けて通ることができない生老病死(しょうろうびょうし)という、人生の根本の苦しみを教えてくださいます。

健康なときには、まったく考えもしなかったことですが、自分が病気になってみると、いかに深刻な苦しみであるか、身にしみます。

老いていくなかで、さまざまな悩みを体験するようになって、老苦がいかに厳しい問題かを知らされます。

しかし、私たちは、刻々と変わっていく無常の身でありながら、明日もあさっても、死ぬなどということは考えたくない、考えてもしかたがない、死を遠ざけごまかして、今の状態と同じように元気で生活できるものと信じ込み、今日一日を過ごしています。

親鸞聖人は、『教行信証』の冒頭で、これから顕(あら)わそうとされる浄土真宗の教えの中心は、救いの根本である阿弥陀如来の本願と、何ものにもさまたげられない阿弥陀如来の光明であると、お示しくださっています。

「ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり」
    (註釈版聖典131ページ)

阿弥陀さまの光明に照らされた私のほんとうの姿は、さとりに役立つものを何一つ持ち合わせていない、どこをとってみても、ただ迷いの世界に沈み続けるしかない凡夫(ぼんぶ)なのです。

だからこそ、阿弥陀さまは、凡夫が凡夫のままで、迷いの世界を抜け出すことのできる確かな救いの法である本願を建立されたのです。

阿弥陀さまの「われにまかせよ、わが名を称(とな)えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という本願は、お誓いの通りに完成された、「南無阿弥陀仏」のよび声となって、仕上がってくださいました。

阿弥陀さまの智慧と慈悲を円(まど)かに具(そな)えた救いのはたらきである「南無阿弥陀仏」を称え、聞かせていただき、確かな依りどころをいただいた人生は、阿弥陀仏の大悲のお心に導かれる人生です。

人生でもっとも苦しい死を乗り越える道はすでに、阿弥陀さまによって開かれていたのです。

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