究極の依りどころ -愚痴ばかりの口から、お念仏が出てくださる-

本願寺新報 2016(平成28)年6月 1日号掲載
満井 秀城(みつい しゅうじょう)(本願寺派総合研究所副所長 広島県廿日市市・西教寺住職)

痛っ、何しやがる

カット 林 義明

新緑から万緑の季節へと移り、木々の緑もいっそう美しく、草木も虫たちも、いのちの息吹を伝えてくれています。私も、お念仏の息吹を伝えていかねばと思います。

しかし現実には、「お念仏の声が聞かれなくなった」と言われて久しいものがあります。どうして、お念仏の声が出にくくなっているのでしょう。「南無阿弥陀仏」という、よび声の仏さまとなられ、私を通して、お念仏の声となってはたらいてくださっているのに。それは、私たち自身が邪魔をしているからのようです。

一つの邪魔は、「恥ずかしい」とか、「照れくさい」とかいうものでしょう。

私の地元広島の高名なM布教使さんから、こんなエピソードをお説教で聴きました。

M布教使さんが、坊守さんと一緒に映画を見に行かれた時のことを、お話しくださいました。当時評判の映画で、感動的な場面にさしかかると、突然、隣の奥さまが、脚をつねるのだそうです。

「痛っ、何しやがる」と思われたそうですが、声を荒げるわけにいかず、じっと我慢して、しばらく続きを見ておられました。そして再び感動的な場面になったら、また奥さまが脚をつねる、ということが何回かあったそうです。

映画が終わって、帰りの途中、奥さまが、「いい映画でしたね」と言われるので、「そうだな」と相づちを打ったものの、脚をつねられたことを思い出し、「それはそうと、なぜ何度も脚をつねるんだ。痛いじゃないか」と責めたそうです。すると、「まあ、あなた覚えてないんですか?」と聞かれたので、「何のことだ」と言うと、「あなたは、いいところになると、ナマンダブ、ナマンダブと言うので、恥ずかしくて」とおっしゃったそうです。

ありがたい話だなあと思って聞きましたが、映画館では恥ずかしいという奥さまの言い分も理解できなくはありません。しかし、お御堂(みどう)の中、お仏壇の前は、如来さまの前ですから、恥ずかしいなどという水くさい思いは不要です。思う存分、お念仏申したいものです。

父に申し訳ない

二つめの邪魔は、煩悩の邪魔でしょうね。後生(ごしょう)の一大事の解決ですから、これ以上ない喜びのはずなのに、テレビが面白い、カラオケが楽しいと、ご法義の喜びを忘れた日暮らしを送っています。

しかしテレビもカラオケも、大きな悲しみに出あうと、何の支えにもなりません。娯楽番組も見る気になりませんし、ハイテンションな音楽も疲れるばかりです。つまり、これらは、本当の支えではないのです。

今年は、父の33回忌になります。32年前の夏、父は心筋梗塞(こうそく)で急死しました。父との死別は悲しかったですし、当時、大阪大の大学院生だった私は、それまでの学問を途中で諦めねばならないこと(自分勝手な発想ですが)や、ゼミの仲間たちと別れて自坊に戻らねばならないこともつらく感じました(もっとも、この点は実際にはそうではなく、数年後に妻となってくれたのは、大阪大の1年後輩のゼミ生でした)。

悲しくつらい時には、テレビも見たくありませんし、ご飯もおいしくありません。それでも、父の葬儀の翌日から、自坊の法務が待ち構えていました。慣れない法事での緊張感や、たどたどしい法話、本当にへとへとな毎日でした。

法務をこなしているうちに、ふと「自分は、こういうことがなかったら、ご法義に遇(あ)えなかったのでは」という思いが起こったのです。仏教や真宗とは直接関係のない学問をしていた私に、こういう形で、父はご法義を伝えようとしたのかと思うと、父に申し訳ない思いでいっぱいでしたが、それ以上に、大きなお育ての中にあったことに気付きました。

そして、同時に、その先に、阿弥陀さまの大きなお慈悲があることにも気付きました。

どんな時でも、心の底から支えてくださっている「畢竟依(ひっきょうえ)(究極の依りどころ)」を、自ら味わい、伝えていくことが大切なのだと思えました。そんな時、思わず、お念仏が出てくれます。

他人の悪口を言うのが楽しく、愚痴(ぐち)ばかりこぼしている、この口から、お念仏が出てくださるのは、本当にすごいことです。仏力・他力のたまものだと、しみじみ思います。

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