変わるもの、変わらないもの -まことの世界に生まれさせてただく第1歩を-

本願寺新報 2016(平成28)年6月10日号掲載
大田 利生(おおた りしょう)(勧学 広島県江田島市・大行寺住職)

昨日、今日、違う私

カット 林 義明

この春、甲子園球場に足を運びました。少し肌寒い日でしたが、観客席はほぼ満席で熱気にあふれていました。芝生のあざやかな緑に爽やかなプレーが重なって、全体が一層美しく感じられました。

その日からしばらく経ったある日のこと、古い新聞の切り抜きを見ていましたら、甲子園球場の歴史と魅力について書かれた短い一文が眼にとまりました。そこには、おおよそ次のようなことが書かれていました。

――球場の周辺は大きく変わった。美しい浜辺も消え、球場のそばには高速の高架道路が走り、大きな団地もできた。その中で、球場だけは変わらないものがある。70年前も今も、見る人のこころに焼きつけるものがある。無くてもいいものははんらんする中で、甲子園球場は無くてはならないもの、不変なものの美しさで輝いている――

この新聞記事は私に、変わるもの、変わらないものについて考える一つのきっかけを与えてくれました。私たちは、いつも自分を中心において、こちらから向こうを眺めています。生きているということはそういうことだと思われます。そして、この眼で見えているものは確かに変わっています。私の住んでいるところも24時間煌煌(こうこう)と明るいところが増えてきました。都会では、知らないあいだに、高いビルが建ち、中に入ると方角さえわかりにくくなることもまれではありません。

ところで、私の外(そと)の変化は眼に見え、誰もが認識できますが、外を眺めているこの私自身はどうかということです。かつて、こんなことばに出会ったことがあります。

「他人と私の違いより、昨日の私と今日の私の違いが大きい」というものです。

これをある人に言いましたら、「カッコイイ」ということばが返ってきました。恐らく、こころに強く響いたに違いありません。

また、世間的におかれる立場が変わりますと、その前後で同じ人が違ったことを言い出すこともあります。このように考えていきますと、もはやこの世に変わらないもの、そして頼りとすべきものなどないということになります。

『歎異抄』に「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」(註釈版聖典854ページ)、「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(同844ページ)と述べられるのは、まさにこのことを示すものです。

4種のさかさま

仏教には四顚倒(してんどう)ということばがあります。顚倒とは、正しい見方やあり方の反対、さかさま、誤った考えという意味です。真実のあり方に背く四種の見方をいいます。最初は、常顚倒(じょうてんどう)と出てきます。無常なるものを常と顚倒してみるという意味です。また二番目からは、苦しみの世界を楽しみの世界とみてしまう楽(らく)顚倒、無我(むが)であるのに我はあるという我顚倒、不浄(ふじょう)を浄と思う浄顚倒。合わせて、凡夫(ぼんぶ)の四顚倒というのです。

つまり、仏教の道理に背いた生き方をしているということです。それは顚倒ですから、ひっくり返っている状態をいいます。しかし、それに気付いていないのが凡夫の姿です。真実まことに遇(あ)って知らされるということです。

このような四顚倒に対し、涅槃(ねはん)の四徳(しとく)ということが経典に説かれます。ことばとしては、常・楽・我・浄と、それぞれ顚倒がとられた文字で表されます。常は永遠、楽は安楽に満ち、我は絶対であり、浄は清浄である、このように辞書は説明します。そして、この涅槃界(ねはんがい)のことを浄土ということばでいい表します。

したがって、浄土はさとりの世界です。変わることのない世界です。変わる世界にどっぷり身をおきながら生きていく、そこに変わらないものを求めていく心が起こるのです。それは、仏法というものがはたらくということです。

浄土は、如来の願心(がんしん)によって完成された世界です。阿弥陀如来は一切の衆生を浄土に生まれさせて救いとろうと願いつづけてくださるのです。その願いの中に生かされるとき、永劫に変わることのないまことの世界に生まれさせていただく一歩がはじまるということです。

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