いのちのつながり -偽りても賢を学ばんを賢というべし-

本願寺新報 2016(平成28)年8月20日号掲載
鎌田 宗雲(かまだ そううん)(中央仏教学院講師 滋賀県愛荘町・報恩寺住職)

おかげさまの生活

カット 林 義明

 毎年8月には、お墓掃除、仏教壮年会の本堂掃除、そして盆会(ぼんえ)のおつとめをお寺でしています。

 親子、そして孫たちと一緒に合掌しているご門徒の姿をみると、それぞれのお顔が輝いているように、いつも思っています。お墓であっても、本堂の如来さまの前であっても、やさしい顔をしています。

 そんな顔をみるにつけ、ワンガリ・マータイさんが、日本で見つけた「もったいない」という世界を思い出します。

 私が学生時代、第23代勝如(しょうにょ)ご門主が、親鸞聖人ご誕生八百年のご法要(ご満座)に際してのご消息に、

  念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります。

とお示しになりました。

 お念仏の生活は「ありがとう、おかげさま」の日暮らしなのですね。つきつめれば、今をもったいないと感じて生きているのが念仏生活なのです。

 私は前門さまのご著書『朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて』を愛読していますが、その中で、「ひとりの人間が存在するとき、その背後には、長いいのちの流れ、いのちの連鎖といったものが必ずあります。両親、そのまた両親と、祖先から連綿と続いてきたいのちのつながりによって、ここに生きていることができるのです。(中略)衣食住を考えてみましても、何かのおかげによらないものはありません」と日常の視点を示されています。

 お参りに来られたお同行(どうぎょう)がよく申されます。

 「ワシらが今こうしておれるのは、ご先祖さまのおかげじゃあ。この年になっても、お寺参りさせてもらうのはなぁ、阿弥陀さまにまちがいがないことを、何度も知らされ聞かせてもらうためじゃあ」

 こんなつぶやきを聞くたびに、歴代の住職の願いがわかりました。

 「お浄土まいりの人生を歩ませていただいているわが命、阿弥陀さまにいつも喚(よ)ばれどおしのわが身である」ことを。

無条件のおすくい

 梅原真隆和上(うめはらしんりゅうわじょう)が、浄土真宗の要を歌っています。

  なにもかもまかせまつりて南無阿弥陀
  この身このまますくわれてゆく

という歌です。さきに、お念仏の日暮らしは、「もったない」と感謝の生活だと申しました。梅原和上の心情に迫れば、わが往生には何も条件はいらないのです。

 たとえるならば、赤子を育てる母親は子どもの生きる力を母乳を通して与え、やさしい腕で子どもを守り育てています。阿弥陀さまはこの私を仏にするために、ナモアミダブツのお名号と摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光明でいつも私にはたらいているのです。それはまるでお名号が母親の乳房のようであり、光明が母親のやさしい腕のようなものなのです。

 ナモアミダブツは阿弥陀さまの「私をタスケルすがた」であり、また、私が「タスカッテイルすがた」なのです。このナモアミダブツの本当の意味を理解するには聴聞しかありません。

 有り難い人間に生まれ育っているのですから、「薄俗(はくぞく)にしてともに不急(ふきゅう)の事(じ)を諍(あらそ)ふ」(註釈版聖典54ページ)と指摘される人生の解決に努力しなければ、空(むな)しい一生です。

 じゃ、どうすればナモアミダブツが理解できるでしょうか。ヒントに『徒然草(つれづれぐさ)』八十五段の文章を味わってみましょう。

 「偽(いつわ)りても賢(けん)を学ばんを、賢といふべし」です。たとえ本心でなくても賢者を学ぼうと実践しておれば、やはり賢者というべきであると吉田兼好は言うのです。

 日々の月参りで、兼好法師の言わんとすることを味わいました。

 ご門徒宅へお参りにうかがえば、多くの家は私の後ろでおつとめをしています。おつとめしている子どもは小さな好人(こうにん)です。いつもありがたく思いながら、日曜学校に来てくれる日を指折りかぞえています。おじいちゃんのお念仏の声にひかれ、おうむ返しにお念仏している姿を目(ま)の当たりにして、お念仏のおいわれを領解(りょうげ)できる日が早くおとずれるだろうと信じています。

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