「自由」という不自由 -「生死出づべき道」が課題にならない現代-

本願寺新報 2016(平成28)年10月 1日号掲載
満井 秀城(みつい しゅうじょう)(本願寺派総合研究所副所長 広島県廿日市市・西教寺住職)

伝灯のよろこび

カット 林 義明

 いよいよ、10月1日から伝灯奉告法要が始まります。ご存じのように、一昨年の6月6日に、第24代即如門主から第25代専如門主へと法統継承式が行われました。法統継承式は「儀式」ですから、通例、儀式は1回のみです。

 たとえば「葬式」も、その人にとっては1回だけですし、「帰敬式(ききょうしき)」も1回だけです。「結婚式」も、その後の事情は別として、その時は1回きりのつもりで行っています。ただ、披露宴はいろんな会場で複数回行われることも少なくありません。

 「法統継承式」は1回だけですが、その喜びを多くの人と分かち合い、決意を新たにする機縁、それが伝灯奉告法要です。10月から来年の5月にかけて、10期80日間にわたって厳修(ごんしゅう)されます。一人でも多くの人にお越しいただきたいものです。

 専如ご門主は、「法統継承に際しての消息」の中で、「本願念仏のご法義は、時代や社会が変化しても変わることはありませんが、ご法義の伝え方は、その変化につれて変わっていかねばならないでしょう。現代という時代において、どのようにしてご法義を伝えていくのか、宗門の英知を結集する必要があります」と、ご教示くださっています。

 親鸞聖人の時代と今の現代とで、何が一番違っているかを考えたとき、私の思いでは、最大にして、かつ決定的な違いは、「生死出(しょうじい)づべき道(みち)」が課題になっているかどうかだと感じています。

 今の時代は、少なくとも物質的には便利で快適ですから、「今さら信心や念仏などなくても、何の不自由もない」と考えられていて、「生死出づべき道」が課題にならない人には、「さとり」も「浄土」も響かないでしょう。そこに、現代の伝道の難しさがあると思います。自分が迷っているという自覚がなく、「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思い込んでいます。

 他人のことではありません。この私が、そうだったのです。

欲望に支配され・・・

 私は、自分では「若く見える」と思っていました。髪もほどほどありますし、白髪もほとんどありません。時々同級生と会っても、彼らの変わり果てた姿を見るにつけ、「私は若い」と思っていたのです。

 私は週の半分、京都で本山の研究所に勤めています。時折、その同僚と何人かで食事に行くのですが、店員さんに、「この中で、誰が一番若いと思う?」と聞くと、「そりゃ、お客さまですよ!」と、満面の笑顔で答えてくれました。自分でも若く見えると思ってますし、お店の人も若いと言ってくれる。それで、ますます「自分は若い」と思い込んでいたのです。

 ところが、数年前、急に十二指腸潰瘍(かいよう)で約2週間入院することになりました。お医者さんには行きたがらない性分でしたが、突然の吐血に驚いて近所の医者に行くと、そこで救急車を呼ばれ、そのまま総合病院に担ぎこまれました。いろんな検査をされて入院となり、主治医の先生が夜になって回診に来られたとき、開口一番、「あなたは、もう若くないんですから、無理をしてはいけません」と言われました。「私は若い」という自意識が、粉々に打ち砕かれたのです。

 私が愚かなだけではありません。「自分のことは、自分が一番よくわかっている」と多くの人が思っているでしょうが、実は自分自身の明日さえ、誰もわかっていないのです。

 さらにまた、「今さら念仏などなくても、何の不自由もない」と思っている「自由」って何でしょうか。おそらく、「自分の思い通りになる」ことを「自由」と考えているのでしょう。

 しかし、「自分の思い通り」は、決して本当の自由ではありません。「自分の思い通り」とは、欲望という煩悩に支配された、これも一つの不自由なのです。私たちは、こういう価値観の転換を促していかねばなりません。

 蓮如上人は、「弥陀(みだ)をたのめば南無阿弥陀仏の主(ぬし)に成(な)るなり」(註釈版聖典・千309ページ)とおっしゃっています。

 欲望という煩悩を自らの主とせず、南無阿弥陀仏を主とした日暮らしを送りたいものです。

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