月の光に照らされて -名月はながめる人の心にこそある-

本願寺新報 2016(平成28)年10月10日号掲載
櫻井 法道(さくらい ほうどう)(新光保育園園長 広島市・正向寺衆徒)

よび続けの仏さま

カット 林 義明

 お彼岸も過ぎ、日暮れも一段と早くなり、夜空にはお月さまや星が輝く季節となりました。名月もこの季節ならではの美しさです。お月さまは、私がどこにいようと、必ず付き添い照らし見守ってくれているように感じます。

 しかしながら、その美しさがわかる人は、ながめることのできた人だけです。親鸞聖人のよき人、恩師である法然聖人は、

  月影(つきかげ)のいたらぬ里(さと)は
  なけれども
  ながむる人(ひと)の心(こころ)にぞすむ

と詠(うた)われました。

 月の光は、野山や里をくまなく平等に照らしていても、その月をながめる人でなければその美しさは心に伝わらない、という意味です。「月影」は仏さまの光。「ながむる」とはみ教えを聞く「ご聴聞(ちょうもん)」のことです。

 親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に「『聞(もん)』といふは、衆生(しゅじょう)、仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞(き)きて疑心(ぎしん)あることなし、これを聞(もん)といふなり」(註釈版聖典251ページ)と示されています。

 何を聞くかというと、阿弥陀さまが、必ず救うと誓われたご本願を建て、この私のために「南無阿弥陀仏」の六字となってよび続けていらっしゃったとお聞かせいただくのです。ところが、月と同様に、阿弥陀さまの大慈悲(だいじひ)に照らされていても、ながめる心、すなわち「ご本願の生起本末(しょうきほんまつ)」を聞くことなくしては、その美しさや有り難さが心に宿ることはありません。

 親鸞さまもそのご生涯を通して、「人間として生まれてきた悲しみ」を解決する道は、自力修行で解決できるものではなく、「南無阿弥陀仏」と照らされ届けられている六字の名号(みょうごう)のいわれを疑いなく聞く以外に、この私が救われていく道はないことを示されました。

「まことの保育」を

 また、『教行信証』には、王である父を殺し母をも殺そうとしたアジャセ王子が、お釈迦さまの「月愛三昧(がつあいざんまい)」(同279ページ)によって、その深い罪から救われていく姿が示されています。ここでも、お釈迦さまの光明が月の光にたとえられています。親鸞聖人もアジャセ王子が救われた姿に、わが身の救いを重ねておられたことでしょう。

 この愚かな身にも平等に、分け隔てなく照らす月の光によって、夜道でも安心して歩むことができるように、煩悩の尽きることのない「わが身」が照らされていることによって、安心して人生を歩んでいけるのです。

 妙好人(みょうこうにん)として知られる因幡(いなば)(鳥取)の源左同行(げんざどうぎょう)は、次の法座に誰を講師に呼ぼうかと相談されたとき、「誰でもよい、ご本願のいわれと、源左お前を必ず助けるということさえお聞かせいただければそれでよい」と答えたそうです。

 「ご聴聞」の場は人を選ぶのではなく、話される「み教え」を再確認する場であったのです。せっかく人間として生まれてきて、阿弥陀さまのご本願に照らされていながら、その月をながめることもなく「ご聴聞」もせず、もったいないことであったと気付かされ、ご本願を聴聞する場にこの身を置くことが何より大切なのです。

 今、社会は高度成長期から、成熟社会へ移行しています。成熟社会を生きる私たちは、「ものの豊かさ」から「存在の豊かさ」を再確認する時代にあるといいます。

 私が勤める保育園は、北海道小樽市にある小樽別院の新光(しんこう)地区の説教所に開設されました。今年で創立51年を迎える、園児100人あまりの保育園です。まことの保育(仏教保育)の実践は、時代が変わっても変わることのない事柄と、時代の変化とともに変えていく事柄とがあります。

 保育園では、お参りの時に手を合わせ「仏参(ぶっさん)」をします。そして「みほとけさま! いつでもどこでも そばにいてくださってありがとうございます」と「奉讃文(ほうさんもん)」を全員で唱和しています。

 どんな子も、どんな時でも、いつでもどこでも月の光のように照らし見守ってくださる阿弥陀さまの「存在」を伝えていくことが、保育の使命であり、いつの時代であっても変わることはありません。

 阿弥陀さまは、すべてのいのちの「存在」に、救いの光を照らし続けてくださっているのです。

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