「念仏うり」-み教えの尊さを縁ある人に伝える-

本願寺新報 2016(平成28)年10月20日号掲載
鎌田 宗雲(かまだ そううん)(中央仏教学院講師 滋賀県愛荘町・報恩寺住職)

拝まれて下さる仏

カット 林 義明

 私が住んでいる地域は、浄土真宗の信仰が長い歴史とともに伝えられ、念仏生活が根付いているところです。私のお寺では10月に報恩講が修行されると、そのあとから、各家々の在家報恩講「おとりこし」のお参りに時間をかけています。私にとって、門信徒の方々と、先祖からいただいたお念仏の教えを語りあいながら、親鸞さまのご苦労やアミダさまのお救いが味わえる至福の時間です。

 若い頃に島根県有福(ありふく)の光現寺を参拝したことがありました。そのときにご住職からいただいた本に、「おがんで たすけてもらうじゃない おがまれてくださる 如来さまに たすけられて まいること こちらから おもうて たすけてもらうじゃない むこうからおもわれて おもいとらるること この善太郎」という味わいがありました。

 善太郎さんのこの徹底したご本願の領解(りょうげ)は、私に大きな影響をあたえました。心身にしみこんでありがたく、今では、お念仏を味わう導きになっているお領解です。純心にアミダさまの喚(よ)び声を心からうけとっておられます。

 善太郎さんのこのよろこびを味わっていると思い出すのが、蓮如(れんにょ)さまのお弟子として有名な道宗(どうしゅう)です。

 道宗の聴聞の心得は『蓮如上人御(ご)一代記聞書(ききがき)』一三一条に「同じお言葉をいつも聴聞しているが、何度聞いても、はじめて耳にするかのようにありがたく思われる」(意訳)とあります。

 蓮如さまは「いつも初事(はつごと)のようにご法義を聞くべき」とか、「耳慣(みみな)れ雀(すずめ)になってはいけない」などと、お聴聞の心得を申されていましたから、道宗はこのように生涯無心にお念仏をよろこんでいたのです。

油断あるまじき事

 蓮如さまのお子さまの蓮悟(れんご)が著わした『拾塵記(しゅうじんき)』に道宗のことが書かれています。

 道宗は1年の大半を本山参りや同行(どうぎょう)の家を訪ねることについやしていたこと、そして同行といつもお念仏の話をして、アミダさまのお慈悲をよろこんでいたことが記されています。ある時、道宗が数人と本山参りをしたあと、ほかの同行が家に帰ったのに、道宗だけが帰ってこないことに心配した伯父の浄徳(じょうとく)が「一緒にお参りしたはずの道宗がまだ家に帰ってこないのだが、ご存じでしょうか」と同行たちにたずねました。

 すると、「道宗さんは念仏うりだから、いろんな人の家に泊まっているはずです。いつ帰ってくるのかはわかりません」と答えたそうです。

 「念仏うり」の意味がわからなかった浄徳は、それからだいぶ経ってから家に帰ってきた道宗に、「道宗よ、みんながお前のことを念仏うりと言っていたよ。これからはみんなと一緒に帰ってきなさい」とたしなむように言いました。これを聞いた道宗は、「どういう意味だろうか」といてもたってもおれません。すぐさま、京都の蓮如さまのもとに行き、事の次第を申しあげました。

 これを聞かれた蓮如さまは「道宗よ、結構なことではないか。何も心配することはない。お念仏をおおいに売り広めねばなりません。買い手が少ないですからね」と言われたそうです。この蓮如さまのお言葉に感じ入った道宗は、今までにもまして同行とお念仏の話に花をさかせていたといいます。

 この時の「念仏うり」は売り買いの話ではなく、お念仏のありがたさ、アミダさまの尊さを縁ある人々に伝えるということです。念仏うりと揶揄(やゆ)した同行の心中は好意的なものではありませんが、ナモアミダブツのはたらきの中に生かされ生きている自分がうれしくて、まわりの人にお念仏をすすめずにはおれなかった道宗の生き方です。

 その生き方を一言で言えば、蓮如さまがご往生されて2年後に書いた「道宗覚書(おぼえがき)」にある、「後生(ごしょう)の一大事、いのちのあらんかぎり、油断あるまじき事(こと)」「ひきたてる心なく、大様(おおよう)になり候(そうろう)は、心中をひきやぶりまひるべき事」ということにつきると思います。豊かな生活環境にある今の私は、道宗のこの純粋な思いを受け取って生きているだろうかと省みるばかりです。

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