一人で生きる力-宇宙全体の中に自己を見出す-

本願寺新報 2016(平成28)年11月 1日号掲載
西原 祐治(にしはら ゆうじ)(布教使 千葉県柏市・西方寺住職)

約束がつくる現実

カット 林 義明

 遠方に嫁いだ娘が、2歳前の子を連れて1年ぶりに里帰りしました。娘の来訪の目的は、友人の結婚披露宴への出席です。披露宴の1週間前に帰ってきて、子どもを祖父になじませてから外出しようという考えです。

 孫は家に来てから、知らない家に来ての不安もあってか、トイレに行っても「ママ、ママー...」と付きまとう状況でした。娘が駅まで人を送っていって不在となった10分間も、やはり「ママは、ママは」と言い続けていました。

 1週間後の娘の外出は、午前11時から午後6時までの予定です。〝2時間くらいで泣きやむかな〟 これが私の予想でした。

 さて当日です。私は朝から所用があって外出し、お昼頃に帰宅しました。きっと「ママは、ママは...」と泣いているだろうと思いながら居間に入ると、なんと祖母に見守られながらニコニコして、一人で遊んでいます。

 夜、娘が帰ってきた時に、「出かける時はどうだった」と確認しますと、「ママは今日はご用事で外出するけれど、夕方には帰って来るからお利口にしていてね。ナナちゃん(長男の子)も来てくれるからね」としっかり約束して、駅でバイバイしたとのことです。

 言葉には現実をつくっていく働きがあります。「明日、東京駅で会うという約束」によって、人と人が〝会う〟という現実がつくられます。「広島支社に転勤を命ず」という辞令によって〝転勤〟という現実がつくられていきます。母と子の約束によって、一人で過ごすという現実がつくられたのです。私には驚きでした。

 娘が自分の家に戻った後、私はなぜ幼児が母との約束を実行できたのかを考えました。それはおそらく今まで、生活の中で何度も「少し待っててね、すぐ来るから」といった約束という経験の積み重ねがあったからだと思われます。

一人でも一人でない

 阿弥陀仏の約束を誓いと言います。「私を浄土へ摂(おさ)め取る」という誓願です。私は、この誓願を生活の中で受け入れて暮らしています。私がなぜ、その誓いを受け入れているのかを考えると、孫と同様に、過去の経験の中で私の念仏となり、私を〝み教えを喜ぶ人間〟に仕上げ、誓いどおりにはたらき続けてくださっているという事実があったからなのでしょう。

 『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「人(ひと)、世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独(ひと)り死(し)し、独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)る」(註釈版聖典56ページ)とあります。お経(きょう)の言葉は、「ひとり」という孤独な人生の事実を伝えたものです。

 その〝ひとり〟について、ウィニコット(1896~1971)は「一人でいられる能力」という重要な示唆(しさ)を与えてくれています。

 ウィニコットは、イギリスの小児科医・児童分析家で、40年以上にわたり6万例の臨床経験を基盤に、独自の視点から母子の対象関係論を発展させています。

 ウィニコットが教える「一人でいられる能力」は、乳幼児期に開発されるものだそうです。常に親が自分のことを守ってくれているということを体験として理解した乳幼児は、物理的に親が傍(そば)にいなくても、いつしか善意にあふれた心地よい環境に深く安心し、ひとり遊びができるようになる。この安心感を伴ったひとり遊びは、悲観的な孤独体験とは全く正反対で、安心して自ら未知の世界へと向かって行くことのできる孤独だといいます。この能力によって、人は他者といることでひとりでいられるようになり、ひとりでいられることによって他者と一緒にいられるようになるのだそうです。

 「一人でいる能力」とは、〝一人でいても一人でない〟といった感性です。逆に、一人でいる能力が阻害されると、「独房に監禁されていて、それでも一人でいることができないということがありうる。こうした人が、いかに苦しむかは想像を超える」とウィニコットは語っています。

 浄土真宗は、阿弥陀さまによって「一人でいられる能力」が育(はぐく)まれていくのでしょう。その能力は「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(歎異抄、同853ページ)と示されるように、宇宙全体の生命の中に自己を見出(みいだ)すというほどに、力強いものなのです。

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