再発見 伝統の意義 -ストレス多い現代こそ、お寺が心の支えに-

本願寺新報 2016(平成28)年12月 1日号掲載
満井 秀城(みつい しゅうじょう)(本願寺派総合研究所副所長 広島県廿日市市・西教寺住職)

報恩講

カット 林 義明

 「お番」の晩は雪のころ、
 雪はなくても暗(やみ)のころ。

 くらい夜みちを
 お寺へつけば、
 とても大きな蝋燭(ろうそく)と、
 とても大きなお火鉢(ひばち)で、
 明るい、明るい、あたたかい。

 大人はしっとりお話で、
 子供は騒いじゃ叱(しか)られる。

 だけど、明るくにぎやかで、
 友だちゃみんなよっていて、
 なにかしないじゃ
 いられない。

 更(ふ)けてお家へかへっても、
 なにかうれしい、ねられない。

 「お番」の晩は夜なかでも、
 からころ足駄(あしだ)の音がする。
    (金子みすゞ「報恩講」)

 今は、ちょうど「お番」(報恩講・お取り越し)の季節です。

 ついこの間まで当たり前だった、この光景が、今は、むしろ珍しくさえ感じます。

 近所の人たちが、こぞって大人も子どもも、お寺に集まって、寒い夜でも心の底から暖かい、一年に一度の地域の特別な集い。それが報恩講でした。

 お寺だけでなく、各家庭でも、また地域の集落でも行われてきました。

 しかし、現在、地方の各地の「お講」は、昨今の社会構造の激変により、壊滅的な打撃を受けています。

 私の地元でも、講中(こうちゅう)の維持が困難な状態となっています。これまでずっと、行政の「区や組」とは別に、むしろそれ以前から「講」という地域の集まりがあり、この「講」は、毎年の報恩講(地域によっては毎月の法話会もありました)と、講員の葬儀とが主な行事で、これが求心力となって維持されてきました。

 昔「村八分」という言葉があった時代、「八分」のあとの二つが火事と葬式で、「村八分」にされても、火事と葬儀の二つだけは近所が助け合ったと言われています。

自分の都合が横行

 ところが、近年、「会館葬」の急増により、求心力の大きな柱が失われてしまいました。葬式には、大変な労力がかかります。これまでは、「お互いさまだから」と、近所の人たちが力を合わせて、一大行事を出してくれていました。それが、「近所に迷惑をかけない」という美名の下(もと)に、葬儀会館という合理的な請負い業者に任せるようになり、講の存在意義が薄れ、新しく講に入会する人がなくなってきたのです。

 そのため、今や報恩講だけ継続するのがやっとという状況です。お互いに助け合うという意識よりも、自分にメリットがないものには関わりたくないという、「自分の都合主義」が横行しているということなのでしょうか。

 これは、ご法義の集まりだけではなく、行政の区や組の話し合いでも、学校の保護者会でも、参加数は減少する一方のようです。

 他人と関わることを「わずらわしい」と感じるのは、人間関係や気遣(きづか)いに疲れている表れかもしれません。確かに、現代は、さまざまな不安が押し寄せてきて、ストレスに押しつぶされそうになりますし、気心の知れない人と関わるには、大きなエネルギーを要します。

 しかし、その一方で、人間関係に疲れた現代だからこそ、人は「つながり」を求め、優しい心や、心の支えを必要としてもいるのです。要は、お寺が、その「受け皿」を、どう提供できるかにかかっています。

 気心の知れない人との関わりは疲れますが、お念仏という同じ価値観を持つ者には、何より安心感があります。そして、心の底から支えてくださる阿弥陀さまのお慈悲につつまれ、お念仏のやさしい心でつながった集まり、お寺がそういう存在として、再認識してもらえたらと願ってやみません。「報恩講」には、実は、その要素が詰まっています。

 先人たちからの伝統の意義を、私たちが再発見し、自信を持ってつとめていきたいものです。

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