永遠に見捨てない救い -逃げる私をどこまでも追いかけて-

本願寺新報 2017(平成29)年3月 1日号掲載
前田 壽雄(まえだ ひさお)(本願寺派総合研究所上級研究員 北海道・専念寺衆徒)

いざ減量となると

カット 林 義明

 外出時に私は、デジタルカメラを持ち歩くようにしています。食事の際、これからいただく料理を撮影するためです。もう5年以上も行(おこな)っている日課ですので、私のまわりには食前に写真を撮っていることを知っている方が増えてきましたが、その様子を初めて見る方からは、「何のために撮っているの」「ブログに投稿しているの」などと聞かれることもあります。

 しかし、そのような理由から撮影しているわけではありません。毎食の写真を撮影するようになったきっかけは、医師から次のようなことを聞かれたからです。

 あなたは何を食べていますか? 1週間前の晩ご飯は何を食べましたか?

 医師からこのような質問を受けた私は即答することができず、とても恥ずかしい思いになりました。多くのいのちをいただいて生かされている身でありながら、具体的に何を食べたのかも忘れてしまっていたからです。

 医師はもちろんそのようなことを自覚させようとしたわけではありません。腎機能が低下していく病を患っている私に、食べた物が検査の数値に現れることを示し、18歳の時の標準体重に戻すことを勧められたのです。

 いざ減量するとなると大変なことです。栄養士の方からはバランスの取れた食事をとるようにアドバイスを受け、私の身体に合った食生活として、塩分やたんぱく質の制限をうながされました。医師からは何度もこれらを「食べないように」と注意されました。

 それからは気をつけるようにしていましたが、それでも食べすぎているという自覚がなかったせいか、しばらくは目の前に見えた食卓のお菓子や人からふるまわれたご馳走を口にしたり、子どもの食べ残しを食べたりするなど、つい食べてしまいました。

 その様子を見かねた医師は入院をうながし、自分だけではなかなかできない減量を、医師の指導のもと半ば強制的に行うことになりました。数年かけて何とか標準体重に戻すことができましたが、大変苦労したとともに、病状が進行してしまい、もう少し早く取り組めばよかったという思いにもなりました。病であると聞かされていても、私にはそれができなかったのです。

わかっているけど

 阿弥陀如来の本願の救いは、しばしば重病人に最善の薬を与え、力の限りを尽くして治療する医師の医療行為にたとえられます。病を患っている私に対し、医師は私の身体の状況をくまなく検査し診察して、私の病に合った適切な治療を施そうとします。けれども私は病の自覚症状が乏しいことから、病人であるにもかかわらず、医師が私のことを思って「食べないように」と指導してくださっていても、わかっていながらそのことを受け入れようとせず、食べてしまっていたのです。

 阿弥陀如来は、この医師と同じように重病人である凡夫(ぼんぶ)をくまなく見とおされて、その苦悩をわがこととして受けとめ、共に痛む心で、凡夫に合った「南無阿弥陀仏」のお念仏を与えようとはたらきつづけておられます。けれども凡夫はなかなか受け入れようとせず、背を向けて逃げまわっているのです。

 親鸞聖人は、このような凡夫を救おうとする阿弥陀如来のはたらきを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」と表されています。

 『浄土和讃』の「摂取してすてざれば」の句の左側には小さな字で、「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と記されています。(註釈版聖典571ページ脚註)

 「ひとたびとりて永く捨てぬ」とは、一度救い取ったならば永遠に見捨てることがないという阿弥陀如来のはたらきをいったものです。また、「ものの逃ぐるを追はへとる」とは、阿弥陀如来に背を向けて逃げまどっているこの私(もの)を、阿弥陀如来がどこまでも追いかけ、抱きとめてくださるはたらきを表したものです。

 食事の撮影をするたびに、逃げまどう私をどこまでも追いかけ、「われにまかせよ、必ず救う」と、はたらき続けてくださっている阿弥陀如来に抱かれていることを思い返しています。

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