親鸞さまの魅力 -「弟子一人ももたず」という生き方-

本願寺新報 2017(平成29)年5月20日号掲載
鎌田 宗雲(かまだ そううん)(中央仏教学院講師 滋賀県愛荘町・報恩寺住職)

後ろ姿で伝える

カット 林 義明

 若き日の親鸞さまは、比叡山(ひえいざん)でのご修行(しゅぎょう)中、まるで暗闇(くらやみ)の中で生きているような不安をかかえられていました。それが縁あって、源空(げんくう)(法然(ほうねん))聖人が説くお念仏の教えに遇(あ)い、人生に一点の光を見つけ、アミダさまの光明の中に生かされて生きているよろこびを感得していかれました。

 生涯の師との出会いを、『高僧和讃(わさん)』に、

  曠劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも
  出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
  本師源空(ほんしげんくう)いまさずは
  このたびむなしくすぎなまし
   (註釈版聖典596ページ)

と詠(よ)まれています。

 浄土真宗の教えを学んでいると、「もし、私が親鸞さまの教えにあえなかったら、今頃はどんな生き方をしていただろうか?」とつくづくと思うことです。

 親鸞さまのご誕生をお祝いし、浄土真宗のみ教えにあえたよろこびのご法要である降誕会(ごうたんえ)が、毎年ご本山では5月20、21日につとめられています。また、親鸞さまがお生まれになった日野の里にある日野誕生院では、5月19日に誕生会(え)が営まれています。

 さて、多くの人たちは、親鸞さまのどこにひきつけられたのでしょうか。苦悩と混迷のこの世にあって、「真実・まこと」は「弥陀(みだ)の本願」であると説き、アミダさまとともに生きる人生の大切さを伝えられた親鸞さまのご生涯でした。

 親鸞さまがたくさんの人を魅了した理由の一つに、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候(そうろ)ふ」(同835ページ)という生き方があると思います。「そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候(そうら)はばこそ、弟子にても候(そうら)はめ。弥陀の御(おん)もよほしにあづかつて念仏申し候(そうろ)ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼(こうりょう)のことなり」(同)という信念に基づいた生き方です。

 「私もあなたがたも、阿弥陀如来さまのお慈悲にもよおされて、お念仏申す身になったのです。師匠とか弟子というのは、とんでもないことです」と言い放って、お念仏をよろこぶ生きざまは、まるで磁石が鉄をひきつけるように多くの人々をひきつけたのです。ある先生が「親鸞さまはアミダさまを拝んでいる後ろ姿で、アミダさまに救われているよろこびを伝えた人だった」と言われたことがあります。今でもその時に受けた感動が忘れられません。ありがたいですね。

涙を流された聖人

 親鸞さまが関東から京都に帰られたのが、63歳の頃です。それからは京都でお暮らしでした。遠くの関東から20日ほどかけて、京都の親鸞さまを訪ねたお弟子は、長く滞在して、親鸞さまからご法話を聞いたり、著述の書写をしていたのでしょう。

 このような生活を「学問せば、いよいよ如来の御本意(ごほんい)をしり、悲願の広大のむねをも存知(ぞんじ)して」(同841ページ)と『歎異抄』にあるのが、その様子を伝えているのでしょうか。

 親鸞さまのもとに集った同行(どうぎょう)は、教えを学ぶのは知識をふやすのでなく、阿弥陀如来のご本願のおいわれを知らせていただき、お慈悲の中に生きていることをよろこんでいたのですね。

 親鸞さまのお手紙をみると、多くの弟子が京都の親鸞さまを訪ねて、いろいろな苦悩を聞いてもらい、アドバイスを受けていたようです。

 親鸞さまのもとで亡くなった人もありました。下野(しもつけ)高田の覚信(かくしん)です。覚信は親鸞さまに面談するために京都に来る途中、重い病気にかかりました。同行の人たちは帰国して療養するように勧めました。しかし、「どうせ死するのならば、親鸞さまのみもとで」と言い張り、親鸞さまのおそばで亡くなりました。

 これは、親鸞さま常随(じょうずい)の弟子・蓮位(れんい)が、国元にいる覚信の子の慶信(きょうしん)に送った手紙に記されています。覚信は臨終にあたって「南無阿弥陀仏、南無無礙(むげ)光如来、南無不可思議光如来ととなへ」(同767ページ)亡くなったそうです。

 この手紙を送る際、蓮位が親鸞さまの前で読み上げると「御涙(おんなみだ)をながさせたまひて候(そうろ)ふなり」(同768ページ)と記しています。何度読んでも感激します。

 このようなところに親鸞さまの魅力があるのではないでしょうか。

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