ものみな金色(こんじき) -すべてのいのちを価値あるものとして-

本願寺新報 2017(平成29)年8月10日号掲載
花岡 尚樹(はなおか なおき)(ビハーラ僧 奈良県大淀町・浄迎寺住職)

もし自分だったら

カット 林 義明

 昨年の7月26日に神奈川県相模原市で知的障害者の施設を利用する19名が刺殺されるという、大変痛ましい事件が起きました。自首した犯人は施設の元職員で、「障害者はいなくなればいい」と供述していました。戦後最悪といわれる殺人事件であり、また、犯行に至る動機から、マスコミでも大きく取り上げられました。

 「障害者はいなくなればいい」という言葉には、「障害者は不幸をつくることしかできない」という考えが根底にはあり、「障害者は死んだほうが幸せ」というのが犯行の動機です。

 その考えに対して、非難の声が多く寄せられていましたが、逆に犯人の考え方に賛同する意見もインターネットにはありました。

 しかし、「障害」があることが「不幸」であるかどうかは、社会や周囲の人が決めるものではありません。まず何よりも、命を奪われていったお一人お一人の思いやご家族の思いに、心を寄せたいと思います。

 事件に関する報道が連日にわたり続きましたが、私の胸の中に何か釈然としない思いがありました。

 もしも自分自身が認知症になり、また、寝たきりになってトイレにもいけなくなったら、自分ならどう思うだろうか...。そのとき「生きている価値はない」「死んだほうが幸せ」と思わないだろうか...。

 認知症や寝たきりになることは、人に迷惑をかけて不幸であるとするならば、「障害者は不幸」という犯人の考えと共通した価値観になりかねません。

 相模原の事件を通して、自分自身の、また、社会の闇が浮き彫りになったような気がします。

迷いを知らされる

 阿弥陀さまの四十八願(しじゅうはちがん)の第三番目に、

たとひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、国中(こくちゅう)の人天(にんでん)、ことごとく真金色(しんこんじき)ならずは、正覚(しょうがく)を取(と)らじ。
     (註釈版聖典16ページ)

とあります。

 この願いを「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」といい、すべての〝いのち〟が金色に光り輝くことがなければ、さとりを開かないとお誓いくださっています。

 阿弥陀さまの願いのなかであらわされる「金色」とは、一つには「価値」あるものとして、二つには決して色あせることのない「不変」という意味があります。つまり、すべての〝いのち〟を、変わらず価値あるものとして光り輝かせようという願いです。

 阿弥陀さまが、このように願われた背景には、すべての〝いのち〟が金色ではない現実があるからでしょう。

 相模原の事件では「優生(ゆうせい)思想」という言葉が取り上げられていました。〝いのち〟に対して、「優生」なものと「劣生」なものと分け隔てをして、「劣生」なものは排除していこうとする考え方です。その「優」と「劣」を分ける基準は自分の都合や社会の都合にあります。

 私たちは自分を中心にしながら、自分にとって都合のいいものは大切にしますが、都合の悪いものは排除しようとします。それによって、「大切ないのち」と「そうでないいのち」「使いものになるいのち」と「使いものにならないいのち」がうまれてきます。

 そのような自己中心的な見方が、金色なる〝いのち〟の輝きを曇らせる原因といえるでしょう。

 阿弥陀さまの「悉皆金色」の願いは、すべての〝いのち〟を変わることなく価値あるものとしてご覧くださっています。〝いのち〟に「優」や「劣」はなく、「老い」や「病気」によって「劣化」するものでもありません。また、「障害」のあるなしによって、その価値が変わるものでもありません。

 「障害者は不幸をつくることしかできない」のではなく、自分中心の価値観から不幸はつくり出されます。

 阿弥陀さまの願いのなかに、自他の〝いのち〟を傷つけている愚かなわが身が知らされます。その愚かなわが身を痛むからこそ、念仏者として「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現」につとめたいと思います。

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