星とり -煩悩の泥の中に咲く菩薩の花-

本願寺新報 2017(平成29)年8月20日号掲載
西原 祐治(にしはら ゆうじ)(仏教婦人会総連盟講師 千葉県柏市・西方寺住職)

紙芝居と小ばなし

カット 林 義明

 お寺の壮年会の人たちが、毎月、病院と老人施設で紙芝居を上演しています。紙芝居は、離れていてもよく見えるようにと、普通の紙芝居を倍の大きさにし、紙芝居のホルダーも手作りしたものです。

 一昨年、紙芝居を始めた頃、いつもの施設ではなく、私が不定期で招かれる老人ホームに紙芝居チームも同伴しました。私が主で、紙芝居はお伴(とも)です。すると、紙芝居がよかったと評判になり、今までご縁がなかった老人施設からも声がかかり、このときは紙芝居が主で、私がお伴でご法話のご縁をいただきました。

 先日、久しぶりに紙芝居とご一緒して施設を訪問しました。壮年会のメンバーが「住職、いつもは紙芝居の後、これを少し読んでいます」と、ある本を見せてくれました。

 本のタイトルは『読み聞かせ 子どもにウケる落語小ばなし』(小佐田定雄著)とあります。実際に紙芝居の後、本に掲載されている短い小ばなしを参加者に披露していました。

 集いが終わって、その本を手にすると、おもしろい小ばなしがたくさん掲載されています。私が一番おもしろいと思った話は「星とり兄弟」です。それは次のようなストーリーです。

 弟の次郎くんが夜、道の真ん中で長い長いさおをふりまわしています。それを見た兄の太郎くんが、「おい、次郎、なにをしてるんだい」と声をかけると、次郎くんは、 「ああ、お兄ちゃんかい。お空にいっぱいお星さまが出てるだろう。あんまりきれいだから、ひとつたたき落としてブローチにしてやろうと思ってさ」

 「おまえって、ほんとにばかだなあ。お星さまって、ずーっと高いところにあるんだぞ。そんなさおを道でふりまわしたって、とどくもんか」
 「だったら、どうしたらいいのさ?」
 「屋根の上へあがれ、屋根の上へ」

私の闇を照らす仏

 おもしろい内容です。さおで星を落とそうとしている弟の行為を、「おまえって、ほんとにばかだなあ」とたしなめておきながら、「屋根の上へあがれ、屋根の上へ」とアドバイスする兄の言葉。星と地球との距離は、地球に住む人が屋根に上ったくらいでは、まったく変わるものではないと知っている読者の笑いを誘います。小ばなしを読みながら、ふと仏さまと私との距離のことが思われました。

 仏教では、仏さまのおさとりに近づく行為を善といい、おさとりに近づく障(さまた)げとなるものを悪といいます。私の煩悩(ぼんのう)は、おさとりに近づく障げとなるので悪です。

 この悪である煩悩を取り除いて、さとりに近づく。これが一般仏教の考え方です。しかし、仏教の中には、人間の抱く欲や怒り、愚痴(ぐち)などの煩悩は人間性そのものであり、その人間の愚かさを認めていこうという仏道があります。それが浄土真宗という阿弥陀さまのみ教えです。

 親鸞聖人は、この私を「煩悩具足(ぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」であると示されています。具足とは、十分にそなわっていることであり、欠け目がないということです。この煩悩を取り除いておさとりに近づく。その努力は、先の「星とり兄弟」の兄が「屋根の上へあがれ」とアドバイスしたようなものなので、結果に至ることがないということです。

 浄土真宗のみ教えは、私の煩悩を取り除いておさとりに至るのではなく、阿弥陀さまが煩悩具足の私を摂(おさ)め取るという慈(いつく)しみの如来となって私の身の上に至り届いてくださっているという仏道です。南無阿弥陀仏は、その阿弥陀さまの名のりであり、存在の証(あかし)です。

 お経(きょう)には、この阿弥陀さまのはたらきを蓮華(れんげ)にたとえられています。

 「『維摩経(ゆいまぎょう)』に〈高原の乾(かわ)いた陸地には蓮(はす)の花は生(しょう)じないが、低い湿地(しっち)の泥沼(どろぬま)には蓮の花が生じる〉と説かれている。これは、凡夫(ぼんぶ)が煩悩の泥(どろ)の中にあって、菩薩(ぼさつ)に教え導かれて、如来回向(えこう)の信心の花を開くことができるのをたとえたのである」
(現代語版『教行信証』352ページ)

  阿弥陀さまの世界というと、遠いはるか彼方を想像される人もおられると思いますが、私の闇(やみ)を照らす光となり、南無阿弥陀仏と称(とな)えられるはたらきとなって、煩悩具足の私の上に至り届いてくださっているのです。

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