心に寄り添うとは -阿弥陀如来に照らされて生きる私たち-

本願寺新報 2017(平成29)年9月10日号掲載
武田 正文(たけだ まさふみ)(臨床心理士 島根県邑南町・高善寺衆徒)

苦悩に目を向ける

カット 林 義明

 私は僧侶の傍(かたわ)ら、臨床心理士として働いております。カウンセリングをしていると、いろいろな悩みを抱える人と出会いますが、近年、うつ病の方が増えています。日本における患者数は100万人にものぼり、誰しもが他人事ではない病となりました。

 うつ病のときは「何をやっても楽しくない」「誰も私の気持ちをわかってくれない」と感じてしまいます。

 そんなときに、「あなたの周りには素敵な人がいて楽しい時間もありますよ」と、良いところに目を向けて元気になってもらおうとしても、なかなかうまく伝わりません。

 ほとんどの場合、うつ病の方は周りの状況はよく見えており、良い部分もわかっているのに、自分だけなぜこんなにもつらいのかがわからずに苦しんでいます。

 こうしたとき、カウンセリングでは、無理に良いところを探すより、「本当は何に苦しんでいるのか?」を話し合います。本当の苦しみを受け止められたとき、現実の問題は解消していなくても、その意味づけが変わり、うつ症状が改善することがあります。

 カウンセラーとして、誰かにお会いするときには、目の前の人の「心に寄り添う」ことを心がけています。「心に寄り添う」ためにいろいろな理論や技法の研究が積み重ねられています。こうした勉強をして、一生懸命、目の前の人に「寄り添う」ことを考えますが、もちろん、うまくいくときといかないときがあります。カウンセリングが順調にいっていると、「自分は相手の気持ちを理解できた」という思いがこみ上げてくる瞬間があります。しかし、この思い込みには注意が必要です。

 ご門主は、伝灯奉告法要のご親教「念仏者の生き方」の中で「仏さまのような執(とら)われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです」とおっしゃっています。

 まさに目の前の人の「心に寄り添う」ときにも大切なお言葉だと思います。

 「心に寄り添おう」とする思いは大切ですが、「心に寄り添えた」と思い込むと、目の前の人の気持ちとはズレてしまいます。また、私たちは実際に目の前の人の「心に寄り添う」ことを完璧に行うのは難しいですが、「心に寄り添う」ための努力は続けなければなりません。

心に当たる光

 うつ病の特徴として、色彩のコントラストを認識しにくくなり、世界が灰色に見えるということがあります。これは気分の問題だけでなく、科学的な研究結果からも実証されています。

 灰色の世界では、きれいな色は見えませんし、汚(きたな)く醜(みにく)い色もはっきりと見えません。そのため、苦しんではいるものの、自分が何に苦しんでいるのかさえもわからないという状態になってしまいます。

 きっと心にうつる色は、他者が自分を「理解してくれる」「見てくれている」ことが光となり、はじめて見えてくるのでしょう。誰にも気持ちがわかってもらえないときには、心に光が当たらず、世界が灰色に見えてしまいます。

 お互いに本気で語り合うことは、見たくない部分と直面する苦しい作業になることもありますが、それでもしっかりと向き合い続けることで、お互いの心に光を当てることができるでしょう。

 しかしながら、私たち人間同士で完璧に「心に寄り添う」ことはできません。

 そんな私たちのことを、阿弥陀如来は広大な智慧と慈悲の光で照らしてくださっています。

 光明月日(こうみょうつきひ)に勝過(しょうが)して
  超日月光(ちょうにちがっこう)となづけたり
  釈迦嘆(しゃかたん)じてなほつきず
  無等等(むとうどう)を帰命(きみょう)せよ
     (註釈版聖典559ページ)

 親鸞聖人は、このご和讃で、阿弥陀如来を太陽や月よりも素晴らしい光であると表現なさっています。太陽は智慧の光、月は慈悲の光をあらわしているそうです。

 そして、お釈迦さまが讃(たた)え尽くすことのできないほどの、くらべるもののないほど素晴らしい阿弥陀如来のお救いにおまかせしましょうとおっしゃっています。

 お互いに阿弥陀如来に照らされている身であることに気づくことができれば、目の前の人の心、そして、自分の心にある新しい色を見つけることができるかもしれません。

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