決して見捨てない -そこにかならず阿弥陀さまが-

本願寺新報 2017(平成29)年12月20日号掲載
竹林 真悟(たけばやし しんご)(布教使 奈良県田原本町・滿誓寺衆徒)

当たり!

カット 林 義明

 今年、小学生向けの学習教材のドリルが、ベストセラーになりました。その名も『うんこドリル』。漢字や算数の問題の例文すべてに〝うんこ〟という単語が入っているのだそうです。特に男の子の間で爆発的な人気を博したことで話題になりました。

 喜んで問題を解く子どもたちですが、そのくせ学校では、トイレでうんこをすることが苦手なんだそうです。かくいう私もそうでした。

  「トイレに行きたい」

 授業中の先生に、そう言い出すのは本当に勇気がいります。お腹(なか)が痛くなると、決まって私は心の中で大声で先生を呼んでいました。もちろん、心の中の声なので、先生は気づきません。それでも気づいてもらえるように、机に突っ伏せたり、大げさに顔を苦痛にゆがめたり、アピールに必死です。でも気づいてもらったことはありませんでした。私はいつも思ったものです。

 「ぼくが先生なら、気づいてあげるのに」

 小学生の頃のことを思い出しながら、大人になった今も、人の思いには気づけそうもない私であると感じました。そして、当時の自分に謝りたい気分になっていると、突然、小学2年生の時の出来事が脳裏によみがえってきました。

 その年の夏、家を新築するため、家族で仮住まいをしていました。私の実家はお寺ではありません。共働きの両親、中学生の姉、小6の兄、そして私です。母は、子どもがお腹をすかせた時のために、いつも果物を箱買いしてくれていました。その時の果物は、ソフトボールサイズのプリンスメロンでした。

 ある日曜日のことです。両親は、ほぼ完成していた新築の家の整理に行って留守でした。夕方お腹がすいた私は、メロンを手に取り、台所で半分に切りました。プリンスメロンの果肉はだいたい緑色ですが、その時のメロンは赤かったのです。「当たり」だと思いました。

 だけど、すぐに気づきました。メロンの果肉が赤いのではなく、私の指先から流れる血で赤いのでした。止血のため慌(あわ)てて傷口をなめますが、止まるわけがありません。オロオロしているうちに、いつしか台所、服、床にまで血が流れ落ちています。さすがに「こりゃ隠し通せない」と思った私は、リビングにいた姉に指を切ったと言いました。

 血まみれの私を見た姉が、「あぁ!」と声をあげます。すると隣の部屋にいた兄が飛んで来て、私の様子を見るなり、何やら叫びながら家を駆け出して行きました。

 後で聞いた話ですが、その時、兄は私が指を切断してしまったと思い込み、少し離れた新築中の家にいる両親を呼んでこなければと、飛び出したらしいのです。家までは全力で走っても10分以上かかるうえ、途中には車の多い幹線道路もあります。一刻を争う状況だと思い込んでいた兄は、短パンにTシャツ姿。慌てて飛び出したので、履(は)いていたのは靴ではなく、大人用のサンダルでした。

 兄はタイミング悪く幹線道路の信号につかまってしまいました。一向に変わらない信号、通り過ぎる無数の車、焦る兄。「このままでは間に合わない。弟は出血多量で...」と涙がこぼれ落ちそうになったその時、普段着とは言い難い姿で信号待ちをしている子どもの異変に気づいた男性が、車を止めて兄に声をかけてくれたのでした。

 その後、男性は兄を乗せ、新築中の家に母を迎えに行き、さらに、いまだ止血できない私を病院まで運んでくれました。おかげさまで軽傷ですみました。

救いようのない私

 浄土真宗の所依(しょえ)の経典『仏説無量寿経』には、阿弥陀仏がお出ましになるまで、はるかな昔から五十三もの仏が相次いでこの世にお出ましになって、すでに去られたと示されています。

 それはすなわち、はかり知れない昔から、五十三もの仏さまですら、この私は救われなかったのだと教えていただきました。

 阿弥陀さまは、自分の苦しみにすら気づけていない私の本当のありようを見抜かれ、多くの仏さまを見送らなければならなかった私の悲しみをあわれみ、決してお前たちの前を黙って通り過ぎるような仏にはならない、心細い思いはさせないと立ち止まられました。

 悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、そこにかならず阿弥陀さまが一緒にいてくださいます。

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