大きなるともしび -「あなたを決して見捨てない」-

本願寺新報 2018(平成30)年1月20日号掲載
佐藤 知水(さとう ちすい)(布教使 岡山県井原市・光栄寺衆徒)

片面しか見てない

カット 林 義明

 皆さんは最近、月をご覧になりましたか。スーパームーンや月食など、月は魅力的な表情を私たちに見せてくれます。しかし、月は満ち欠けはしますが、今日は裏側を向けているということは決してありませんよね。月は自転と公転が同期し、常に地球に同じ側を向けているそうです。

 2013年にロシアのチェリャビンスク州で隕石(いんせき)が落ち、1500人もの負傷者が出るという大事件がありました。地球は常に隕石落下の危機にさらされているのです。隕石で恐竜が絶滅したという説もあります。しかし、月にも引力があるため、過去には地球に落ちるはずの隕石を、月の裏側が食い止めたこともあるそうです。

 月を見て「きれいだな」と思うことはありますが、「私を生かしてくれて有り難う」と手を合わせたことはあったでしょうか。

 月の裏側は見ることができないように、私たちはいつも物事の一面しか見ていないようです。また、自分の都合のよいところしか見なかったり、「好きか嫌いか」「得か損か」などと、偏(かたよ)って見てしまうのが私の見方です。

 たとえば、病気と健康だったら、同じいのちの営みにもかかわらず、私は当然、健康をよしとして選びます。自分も家族も、ずっと健康であってほしいと願わずにはいられません。

 しかし、昨年の5月に住職である父が大腿骨(だいたいこつ)を骨折、その後ウイルスに感染するなどして、今も入院を続けないといけない状態になってしまいました。

常に私を照らす光

 そのような中、あるご門徒のご葬儀で、父に代わり私が導師を務めました。

 葬儀の後、亡くなられたご門徒の奥さんが「住職さんに導師をしていただきたかったです」とポツンとおっしゃいました。

 私は「住職の代わりが務まらなかったか」と申し訳なくなりました。その様子を察してくださったのか、こう言ってくださいました。

 「おつとめいただき、とても有り難かったです。ただ、主人と住職さんは同い年で、いつも仲良く話をさせてもらっていたのです。実は、亡くなったことを入院中のご住職の携帯電話にご連絡したのです。すると、声を詰まらせて泣いておられました。『おつらいでしょう。本当にお世話になったんですよ』と言ってくださって...。私もその声を聞いたら、それまで張りつめていたものが一気にあふれて、しばらく一緒に泣いてしまったんですよ」

 私は父の病(やまい)を外側から見て、つらいだろう、しんどいだろうと思っていました。しかし、それは病の一面でしかありませんでした。

 父は今、病の中にあるからこそ、同じ立場から闘病中のご門徒の心情に思いを馳(は)せたり、看病して見送られたお連れ合いの気持ちを察したりして、涙がこぼれたのだと思います。

 後でそのことを話すと、父は「ともに阿弥陀さまのお浄土を聞かせてもらっているから、また必ずお会いさせてもらうことができる。でも、やっぱり寂しいな」と話してくれました。

 父にとって病はきれい事ではなく、つらくしんどいことでしょう。そのこと自体は変わりませんが、自らの病の経験によって相手の悲しみを知ることができたのです。

 それなのに、病を悪いこと、嫌なことだという見方しかできない、しかもそれを当然だと思ってしまう私のあり様を、阿弥陀さまは真っ暗闇、つまり真理に暗い「無明(むみょう)」の存在と示されます。

 「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり」(註釈版聖典670ページ)と、親鸞聖人はお示しくださいました。

 私のあり様をしっかりと見抜いてくださった上で、「あなたを決して見捨てない」と願い、照らし、包んでくださるのが阿弥陀さまの灯(ともしび)です。

 阿弥陀さまが私たちに向けられた大きな灯に照らされると、私たちの見方には限りがあり、それなのに自分は正しい気でいることに気づかされます。

 浄土真宗では、お聴聞(ちょうもん)を何よりも大切にします。なぜならそれは、この私が「無明」の存在であるということを、また、そのような私に阿弥陀さまの願いが常にはたらいてくださることを聞かせていただくからです。

 ともに繰り返しお聴聞させていただきましょう。

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