一杯の温かいお茶 -ひと声のお念仏には-

本願寺新報 2018(平成30)年2月 1日号掲載
佐々木 義英(ささき ぎえい)(司教 滋賀県大津市・福田寺衆徒)

優しい心遣い

カット 林 義明

 二月は、陰暦で「如月(きさらぎ)」といわれますが、また「衣更着(きさらぎ)」とも書かれます。それは、この時季が一年を通して最も気温が低いことから、重ね着をして寒さを凌(しの)ぐという意味を表しているようです。

 立春を迎えるといっても、陽(ひ)の昇(のぼ)っている時間は短く、すぐに辺りは薄暗くなります。その日のお仕事を終えられる頃には、肌を刺すような寒さのなか、家路を急がれることでしょう。

 「ただいま」
 「おかえりなさい。寒かったでしょう」

 そうして、一杯のお茶が差しだされます。

 「温まってね」
 「ありがとう」

 そこには、寒天の夜空の下を帰ってくるわたしを気遣う言葉、冷え切ったわたしの身体をいたわる気持ちがあります。そして、帰宅するとすぐにお茶が差しだされているということは、わたしの思いを汲(く)み取っていらっしゃるお家の方の優しい心遣いがあるということです。心温まるお茶を前にして、感謝の言葉とともにおいしくいただかれることでしょう。

お念仏のこころ

 お念仏のこころについても、これと同じように考えることができます。親鸞聖人は、そのこころを三つに分けて説かれています。

 その一つは「わたしを招(まね)き、喚(よ)び続けておられる(阿弥陀)如来の本願の仰(おお)せである」(現代語版『教行信証』75ページ)とおっしゃっています。

 それは、寒風のなか帰宅したわたしに「おかえりなさい。寒かったでしょう」と声をかけられるように、南無阿弥陀仏のお念仏は、煩悩に凍(こご)えるわたしを気遣う「阿弥陀さまの喚(よ)び声」であるということです。

 その二つは、お念仏には「阿弥陀仏が因位(いんに)のときに誓願(せいがん)をおこされて、わたしたちに往生の行(ぎょう)を与えてくださる大いなる慈悲の心」(同)が込められてあるとおっしゃっています。

 それは、帰宅するとすぐに、わたしをいたわる気持ちから一杯のお茶が差しだされるように、そこには、わたしの思いに先んじて「お念仏を称(とな)えさせたい」という「阿弥陀さまの優しいおこころがある」ということです。

 そして、三つには、そのお念仏は「衆生(しゅじょう)を救うために選び取られた本願の行(ぎょう)である」(同)とおっしゃっています。

 それは、優しい心遣いから差しだされた温かいお茶によって、こわばったわたしの心が和(やわ)らぐように、南無阿弥陀仏のお念仏には「あなたを救い取って必ずさとりに至らせる」という「阿弥陀さまの願いにかなったはたらきが満ちあふれている」ということです。

報謝の思い

 このように差しだされたお茶を、わたしたちはどのようにいただいているのでしょうか。第十三代宗主の良如(りょうにょ)上人の頃から本願寺の歴代のご門主に献茶を行っている藪内(やぶのうち)流には、その茶風を表して、

 すなほなる
  心をうつす
   わざなれば
 手つきまがらず
  すなほなるべし

という道歌(どうか)が伝えられています。その意(こころ)は「茶の道は、客人をもてなすまっすぐな心を映(うつ)すものであるから、立ち居振る舞いを正し、心身ともに清らかでなければならない」ということでしょう。このように、茶の湯には、それを点(た)てるものの心が、そのまま所作(しょさ)に映ります。そして、亭主のおもてなしの心と客人の心がひとつになるところには、おのずから感謝の気持ちがわき起こってくるでしょう。

 点(た)てていただいた南無阿弥陀仏というお茶には、阿弥陀さまの清らかなおこころが映っています。そして、そのお茶は、阿弥陀さまのおこころにかなったはたらきに満ちあふれています。

 一声(ひとこえ)、一声、お念仏を称えるたびに、温かいお茶を差しだされている阿弥陀さまのお姿を思い起こし、悲喜交わる人生という荒天のただ中にあるわたしたちを救い取ろうとしていらっしゃるおこころに、報謝の思いを忘れてはならないでしょう。

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