よび声が聞こえる -仏教が私を追い求めてくださっている-

本願寺新報 2018(平成30)年2月10日号掲載
藤間 幹夫(ふじま みきお)(子ども・若者ご縁づくり推進室マネージャー 広島県福山市・光明寺住職)

役に立たないと・・・

カット 林 義明

 昨年12月、あるお宅にお参りに行きました。お寺の報恩講が終わって数日後だったので、奥さんと「先日のご講師のお話は、とてもありがたかったですね~」と話をしていました。すると、ご主人が「家の中のこととか、孫の面倒とか、庭の落ち葉の掃除(そうじ)とかで大変な時にまったく...。参れと言いますが、みんな忙しいんですよ。よっぽど役に立つ話なんでしょうね。そうじゃなくちゃ困りますよ」と、不満を口にされました。

 さあ、こんな時には何をどのようにお話しすべきでしょうか? 短い時間で考えたものの、お釈迦さまのような当意即妙(とういそくみょう)な例えは思い浮かばず、少し残念な雰囲気でそのお宅を後にしました。

 しかし、その時の「役に立つ」という言葉は、私の心に引っかかりました。

 あえてこの言葉を使って、「仏教は役に立つんですよ~。役に立つとか立たないという私たちのものさし(価値観)がブッ壊れるのに役立つんですよ~」とでも説明すればよかったかなとも後々考えましたが、すんなり納得してもらえる自信もなく、ご主人にお寺に参ってもらうのは今後の課題となりました。

 「何があっても、あなたを離すことはありません」という阿弥陀さまのはたらきを、私が感得(かんとく)させていただくことが仏教ですが、「そこのところが、どうもよくわからない」と言われる方もたくさんおられます。かつて私もそうでしたが、自分のことも振り返って考えますと、「わからない」理由に大きく二つあるように思います。

私を抱きしめる方

 一つ目は、仏教が私よりもはるかに大きくて深いものであると思っていない、ということです。近頃、人工知能(AI(エーアイ))が急速な進化を遂げて、すでにさまざまな分野で人間の能力を上回り、もしかすると将来、AIが人間を支配する時代がくるのではないかとも言われています。

 そういう事態を恐れる人々に対して、脳科学者の養老孟司さんは「そうなりそうな手前でコンセントの電源を抜けばいいじゃないか」とおっしゃっており、確かにそうかもしれません。

 それはさておき、私たちは普段、自分が理解し使いこなしているものに対しては安心感がありますが、逆に私たちよりも大きなもの、理解を超えたものに対しては恐怖を感じます。

 このことからすれば「仏教は役に立つか」という発想は、仏教を私たちよりも小さいものとして見て、ちょっとくらい学べば理解できると高をくくっているからこそ出てくるものでありましょう。

 そうではありません。仏教は私たちが本来なら恐怖を感じるくらいに、とてつもなく大きくて深いものなのです。

 わからない理由の二つ目は、その仏教を、私が問いたずね、私が追い求めていく、という方向性です。教えを追い求めることは大切なことです。しかし、そこからさらに、とてつもなく大きく深い仏教が、私を問い、私を追い求めてくださっていることに気づかされなければなりません。

 親鸞聖人は、この「仏教」そのものが、阿弥陀さまである、という結論に至られました。そして阿弥陀さまは、私を追い求め、つかまえ、あたたかく抱きしめてくださっているお方なのだ、と深くよろこばれました。

 お正月に、報恩講のご講師から年賀状が届きました。毎年、干支をモチーフにしたありがたい賀状を頂いております。今年は、犬を抱きしめている阿弥陀さまの後ろ姿の絵と、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(摂(おさ)め取って捨てない)というタイトルの詩が書かれていました。

 迷子になった犬は 自分が迷子であることも忘れ
 その日の食物を求めるだけの野良犬になっていた。
 ある日 その犬は自分の名を呼ぶ声を聞いた。
 その瞬間 その犬はもはや野良犬ではなかった。
 そして犬は気付いた。
 自分の名を呼び続けた御方(おかた)にしっかりとハグされていることに。

 この犬は、実に私たちのことです。

 十方微塵(じっぽうみじん)世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取(せっしゅ)してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる
     (註釈版聖典571ページ)

 親鸞聖人のご和讃があらためてうれしく味わわれます。

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