どんな私も どんなあなたも-たとえ雲におおわれても暗闇ではない-

本願寺新報 2018(平成30)年3月20日号掲載
森 智崇(もり ともたか)(布教使 大分県玖珠町・光徳寺住職)

架空の"みんな"

カット 林 義明

 私は昨年まで8年間、高校で宗教科の講師として授業をさせていただきました。毎年4月の新入生の授業では、この授業は阿弥陀さまの願いをともに聞いていく時間です、という説明の後に、こんな作業をしてきました。

 「誰とも相談せずに、今から言う絵を描(か)いてください。四角の上に円(まる)を三つ描いてください。テストじゃないです。自分の思うままでかまいません」

 入学して間もない生徒たちですので、私はそれぞれの性格や個性はまだ把握できていません。ひと通り生徒の絵を確認した後、それぞれ異なる構図で絵を描いた生徒数人にお願いして、黒板に自分の描いた絵を描いてもらいます。

 ところが、指名された生徒たちは、チョークを持って黒板の前に立ったままで、なかなか絵を描いてくれません。

 少人数だった中学校から大人数の高校へ入学してきた生徒たちは、新しい環境でいろんな緊張や不安を抱えています。そんな気持ちに想いを寄せながら、「何を描いても大丈夫ですよ」と声をかけ続けると、ようやく一人が描き始めます。

 すると、その絵を見て他の生徒も絵を描き始めます。ところが、それは自分の絵ではなく、最初に描いた生徒の絵と全く同じ絵を描くのです。

 私の経験上ですが、自分が描いた絵を黒板に描けず、誰かと同じ絵を描くことでとりあえず安心する様子は、年々増えてきたように思います。

 そのたびに私は「大丈夫、この問いに正解はありません。同じ言葉を聞いても、みんなそれぞれ違う感性がありますよね。同じいのちを生きていても、個性もまた違いますよね。

 どんなあなたも否定することなく、しっかり大切に抱(いだ)き取る。それが阿弥陀さまの願いです。誰かとの違いは間違いではないのです。

 素直な自分でいられず悩んできたこと、架空の〝みんな〟に合わせてきたこと、わかってもらいたかったこと、あなたの過去も、今も、これからもずっと阿弥陀さまはうなずいて、思い願われ続けているのです。

 どんな絵でもいいのです。今のあなたの答えをみんなにも教えてください」と、阿弥陀さまの願いを私なりに受け止めている言葉で、ゆっくり何度も話し、ともに聞いていきます。

 生徒たちは、なんとなくその願いにうなずき、少し安心したように、ゆっくりとあらためて自分の絵を描き始めます。教室には、自分の絵との違いを見つけた驚きや感嘆の声が響きます。その声にまた、一人一人、黒板に自分の絵を描き始めます。お互いに見せ合い語り合いつつ、まんざらでもない表情が広がります。

本当の私になれる

 親鸞聖人は、阿弥陀さまの光明を「正信偈」に、

 「阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂(おさ)め取ってお護(まも)りくださる。すでに無明(むみょう)の闇(やみ)ははれても、貪(むさぼ)りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇がないのと同じである」(現代語版『教行信証』145ページ)とお示しくださいました。

 私がどうあろうとも問題とせずに必ず救いとっていくという阿弥陀さまの願いに生かされていくことは、大きな安心です。たとえ眼前に苦悩のぶ厚い雲が次々にもくもくと生まれてきても、阿弥陀さまの願いの中にはもうすでに真っ暗闇ではなかったのです。まるで太陽に照らされ包みこまれている雲のように、迷いの中にいる私の姿や、私を取り巻く社会に揺れ悩む私の姿をも、どっしりと知らされることでもあるのでした。

 人生には答えのない問いがたくさん生まれます。そのたびに苦悩はいつまでも消えません。私にかけられた阿弥陀さまの願いを聞かせていただくことは、悩むまま、ありのままに生きることが肯定され、誰かとの違いを間違いと思うことも、誰かの違いを間違いと思うことも、架空の「みんな」に合わせることもしなくていい、本当に一人(私)になれる世界を知らせていただくのでした。またそこには他者(あなた)の個性を素直に尊重していく心も育てられるのです。

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