真実の物語 -よび声を聞き、全く違う世界が開かれる-

本願寺新報 2018(平成30)年5月10日号掲載
加藤 真悟(かとう しんご)(布教使 大阪府四条畷市・自然寺住職)

甘い?酸っぱい?

カット 林 義明

 「お荷物になるかもしれませんが、どうぞお持ち帰りください」

 布教先のお寺で控え室におりますと、お参りされていた女性が、小さな紙袋を持って来られました。手渡された袋の中には、柑橘(かんきつ)系の実が二つ。

 「何という実ですか?」と私がたずねますと、「ポンカンです」と言われました。私はポンカンを食べ慣れていませんので、「ポンカンかぁ...。ポンカンってどんな味だったかな? 甘かったかな? 酸っぱかったかな?」と、いろんな味を想像しました。そして、「どうして二つだけくださったのだろう? ひょっとしたら、大変高価なポンカンなのかも...」などと思ったことでした。

 それはともかく、「ありがとうございます。おいしくいただきたいと思います」とお礼を申し上げますと、「このポンカンはですね...」と、その女性は話し始められました。

 お話によると、この二つの実は、その女性のご両親がお作りになったということでした。ただ、ご両親といいましても、その方ご自身が、私の母ほどの年代の方と見受けられましたので、私は少し驚きました。

 「ご両親がお作りになられたのですか? ご両親はおいくつになられますか?」とおたずねしますと、「二人とももう90を越えております」とのこと。「そうでしたかぁ。お二人とも、お元気になさってるんですね。来年もまた、ポンカンができるといいですね」と申しますと、「そうですね」と少し笑顔にはなられたのですが、「でも、もうね、来年はできないんですよ...」と、少しさびしそうにおっしゃられました。

 時間の都合もあり、それほど詳しく聞けませんでしたが、ポンカンをお作りになるには、ご両親の体力は限界にきているようでした。

 「そうなんですか...。それはさびしいですね。残念ですね」と申し上げるしか、私はできませんでした。

 気がつくと、この一通りの会話をしている間に、私はいつの間にかポンカンの入った紙袋をテーブルの上に置いていました。私はあらためて紙袋を持ち、「ご両親がお作りになった最後のポンカン、大事にいただきます」と、お礼を言いました。すると、その方も「どうぞ、どうぞ」とひと言おっしゃられ、部屋を出て行かれました。

苦悩の闇を破る道

 私は、紙袋を手渡された当初、「甘いのか? 酸っぱいのか?」とか、入っている数を見て、「高いのか? 安いのか?」などと想像を巡らせていました。今、ここに届いているポンカンにどのような背景があるのか、思いもしませんでした。

 しかし、このポンカンには物語がありました。その女性から、ポンカンの物語を聞かせていただくと、その意味が変わってきました。届けてくださった女性の表情から見て取れるその思いから、重みも感じます。ただ舌(した)で味わうだけの「甘さや酸っぱさ」ではなく、「高価なものかどうか」などといった価値観でもなく、全く異なる世界をいただきます。

 同じように、今、私の口に届いてくださっている「南無阿弥陀仏」のお念仏にも、物語があります。私たちがいつもおつとめしている「重誓偈(じゅうせいげ)」には、このように説かれています。

わたしは世(よ)に超(こ)えすぐれた願(がん)をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果(はた)しとげないようなら、誓って仏(ほとけ)にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主(ぬし)となり、力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、誓って仏にならない。 わたしが仏のさとりを得たとき、その名(な)はすべての世界に超えすぐれ、 そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。(現代語版『浄土三部経』40ページ)

 自分なりにあれこれと思案し、懸命に生きながらも、智慧(ちえ)に貧(まず)しいが故(ゆえ)に苦悩の闇(やみ)にある私。その私に、阿弥陀さまは真実を聞かせ、智慧を与え、その闇が破られつつ歩むことのできる道を完成してくださいました。

 その智慧のよび声が、今、私に届いているお念仏でありました。

 「南無阿弥陀仏」のお念仏は、その真実の物語を聞かせていただく私に、私の価値観とは全く違う世界を開いてくださるのです。

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