義父の背中 -阿弥陀さまのおはたらきを知らされる-

本願寺新報 2018(平成30)年9月20日号掲載
竹林 真悟(たけばやし しんご)(布教使 奈良県田原本町・滿誓寺衆徒)

一番身近な住職

カット 林 義明

 昔ながらの細い道が残る町に、妻の実家であるお寺があります。お寺がある住宅街の外側には、これまた昔ながらの墓地があります。

 ある時、その墓石のほとんどにお名号が刻まれていることに気づいて、当時、住職をしていた妻の父に尋ねたことがあります。

 「おとうさん、昔からお名号のお墓が多かったの?」 すると、義父は「こうなるのに50年かかった」と感慨深げに答えてくれました。

 私はお寺で生まれ育ったのではありませんので、私にとって一番身近な〝住職〟というのは義父でした。

 義父は、民生委員を長くつとめ、PTAや町内会の役もしていました。地域では知らない人がいないくらいの有名人です。さらには、40年以上も住職をしており、布教使でもあり、教区の研修会にも足繁く通っていました。熱心で活動的なので、私は教区では名の知れた僧侶に違いないと勝手に思っていたのですが、いろいろな場で知り合う同じ教区の僧侶に義父の名を告げても、特別な反応はありません。義父は有名ではなかったようです。

 一方、私は布教使をめざして、本山で長期の研修を受講することになりました。研修が始まって2日目の夕方、寮の自室でくつろいでいるところに義母から電話がありました。義父にがんが見つかったという連絡でした。

 主治医によると「早くて3カ月。抗がん剤治療をしても2年はきびしい」とのこと。義父は「そんなに悪いですか」と返したそうです。

 私は研修の休みの日、病院の義父に会いに行きました。すると、「おうっ」といつも通りの挨拶です。それどころか、義父は病室にノートパソコンを持ち込み、カタカタとキーボードをたたいて寺報を作っていました。

 それから間もなく義父は、病院では何も治療することはありませんと言われ、自宅療養を始めます。療養といっても、その日が来るのをただただ待つ日々です。

最後の正信偈

 次の休みの日、再び義父に会いに行きました。義父はリビングのいつもの場所でくつろいでいました。しかし、病状は進み、歩けないほどに足がむくんでいます。

 「こわくない?」と私が尋ねると、「如来さまはここにいてくださるから、なーんもこわくない」とこれまたいつも通り。「断末でどうなるかはわからんけれど、念仏しながら往(い)きたいな」と笑っています。

 そして、1枚のリーフレットを取り出して、「ここに入院したい」といいます。それは「あそかビハーラ病院」のものでした。宗門が京都府城陽市に設立した緩和ケア病棟です。

 私は長期研修が終わってすぐの春のお彼岸に、義父の見ている前で、最初で最後の法話をいたしました。

 義父は終始イスに座り、じっとお聴聞していました。そして、ご法座の終わりには、2日後に入院する義父に、お参りされたご門徒が一人ひとりお別れの挨拶に来られていました。

 入院の翌日には容態が悪化。病室に行くと、義父は、臨終勤行をしてほしいと言います。義父の兄弟、家族が見守る中、正信偈をおつとめしました。

 ベッドに寝たままの義父は、声は出ないながらも、ご文(もん)を口にしています。

 義父にとって今生(こんじょう)最後の正信偈。臨終勤行が終わると、義父は力を振り絞るように合掌してお念仏をしました。翌日の午前、家族が見守る中、義父のこの世のご縁が尽きました。

 義父に教わったことは数えきれません。けれど、その一つ一つは、言葉や指導で直接教えられたことではなく、ただただ行動や背中で教えてくれたことばかりでした。それは義父が亡くなった今も、時折お参りのお手伝いをする中で、変わることなく教わり続けています。ご門徒のお宅のお仏壇には、義父がご本山から求めるように勧めお迎えしたであろうご本尊が掛けられ、どのお宅でも朝炊かれたお仏飯が供えられています。

 「春が来たよ」と、花は言葉で伝えてはくれません。花が咲く姿に、春が来たことを教えられます。生涯お念仏をよろこび、お念仏と歩んだ義父が手を合わせていた姿に、間違いなくはたらいてくださっている如来さまを教えられています。

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