氷がとければ... -お念仏とともに柔軟で寛容な生き方を-

本願寺新報 2018(平成30)年11月20日号掲載
緒方 義英(おがた よしひで)(東九州短期大学教授 福岡県築上町・寶蓮寺住職)

水のすごいところ

カット 林 義明

 唐突(とうとつ)ですが、みなさんは、「水(みず)」の形をご存じでしょうか? そう、水道の蛇口(じゃぐち)をひねれば出てくる、あの透明な水です。

 水に形があるの? と不思議に思われるかもしれませんが、ここは想像力を豊かにして、具体的にイメージしていただきたいのです。

 たとえば、グラスを一つ手に取って、そこに水を注いでみたとします。そうすると、グラスとピッタリ同じ形の水が映し出されるはずです。また、形が違う、もう一つ別のグラスを手に取り、そこに先ほどのグラスの水を注いでみてください。水は、グラスに合わせて形を変えるでしょう。

 当たり前のようですが、これが水のすごいところなのです。いつでも、器に合わせて、柔軟に形を変えることができるのです。丸でも四角でも、自由自在に形を変えられるから、用意された器にピッタリとフィットし、違(ちが)うことがないのです。どのような器にも平等で、決して器を選(え)り好むこともない。柔軟で平等、それが水の特性なのです。

 しかし、その水がいったん冷やされ、氷となったらどうでしょう。形が固定され、完全に水の柔軟性が失われてしまいます。自分と同じ形の器でなければフィットしなくなり、サイズ次第では、目の前の器にさえ入らなくなるのです。もはや、そこに、水の平等性をみることはできません。

さとりと煩悩

 こうした水と氷の特性は、人の生き方にも当てはまるのではないでしょうか。

 親鸞さまは、菩提(ぼだい)(さとり)を水に、煩悩を氷に譬(たと)えて、両者の関係性をわかりやすくご教示くださいました。

 無礙光(むげこう)の利益(りやく)より
 威徳(いとく)広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ
 すなはち菩提のみづとなる
     (註釈版聖典585ページ)

 水と氷は、もともと別の体(たい)ではありません。おかれている条件や環境の違いから、別の状態になっているだけなのです。菩提と煩悩の関係も同じで、体は無二(むに)、その状態の違いから別々の名前がつけられているのです。

 水のような性質を持つ菩提は、相手に応じて自在に自分を変化させ、ピッタリと寄り添うことができますが、氷のような性質を持つ煩悩は、頑(かたく)なに自分の形を変えず、自己中心的な関(かか)わり方しかできません。

 一方は、身心が柔軟で平等、もう一方は、身心が凝(こ)り固(かた)まって差別的。一つの体ではあるけれど、その状態次第で、ずいぶんと違っているわけです。

 気がつけば氷のように硬くなっていた身心を、どうすれば、水のように自由で、柔軟にすることができるのでしょうか。氷は、氷自身の力で水になることはできません。他からのはたらきかけによって、はじめて自分を変えることができるのです。

 そこで、ためしに、氷を水のなかにつけてみたらどうでしょう。たっぷりの水の中に氷をつければ、水が氷に作用して、ついに、氷を融(と)かしてしまいます。完全に融けてなくなるまでには、相応の時間が必要ですが、少しずつ少しずつ、水は氷を融かしていくのです。

 この水と氷の道理を菩提と煩悩、また、阿弥陀さまと凡夫の関係に置き換えることはできないでしょうか。つまり、阿弥陀さまの菩提の中で、凡夫の煩悩が融かされる、というようなお味わいをさせていただきたいと思うのです。

 阿弥陀さまの菩提(さとり)は、煩悩を離れることができない凡夫(ぼんぶ)を悲しみ、その凡夫の救いを目当てに成就(じょうじゅ)されたものですから、逃げる凡夫を追いかけて、捕(つか)まえ、摂(おさ)め取ってくださいます。

 凡夫の側は、「摂め取って捨てない」という阿弥陀さまのお心を聞いて、その智慧(ちえ)と慈悲にすべてをおまかせするのです。そうすることで、この上もない菩提(功徳(くどく))の水の中につけていただき、煩悩の氷が融かされるのです。

 凝り固まった見方に縛られた自己中心的な私が、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきによって、少しずつ、自由で柔軟な方向へと転じられていく。自分中心の生活が阿弥陀さま中心の生活へと転換されていくのです。お念仏を申しながら、柔軟で寛容な生き方をさせていただきたいものです。

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