生きる勇気
茅原 良縁
島根・徳正寺住職

春彼岸が近づくと
春のお彼岸が近づくと、優しくて厳しかった姉の声が聞こええてくるようです。私の姉は、平成14年3月20日、58歳でお浄土にかえりました。姉はご主人の仕事の関係で海外におりましたが、定年で帰国すると、しばらく故郷でのんびりしたいと、熊本の人吉に帰ってきました。
両親の遺骨が人吉別院の納骨堂に納められていますので、姉の日課は、雨の日も風の日も1日も休むことなくお晨朝(じんじょう)に参拝し、納骨堂へお参りして、境内をお掃除して、家に帰ると正信偈を唱えることでした。姉はよく、ご法話でわからないことや、勉強してもわからないところは、納得のいくまで僧侶の方に質問していました。いつもそばにくっついていた私は、終わるのをじーっと待っていました。
夏のある日、姉が外から帰ってくると、「背中が痛いのよね。明日、病院に行ってみようかしら」と言って、翌日、お晨朝の後に二人で病院に行きました。
担当の医師は「末期の肺がんです」と。姉は顔色ひとつ変えず、すぐ「あと、どのぐらい生きられますか?」と尋ねると、医師は「来年のお正月を迎えるのは無理でしょうね」と言われました。横にいた私のほうが力が抜け、よろよろと姉の肩につかまると、「しっかりしてよ!良子(りょうこ)ちゃん。私が死んだら、そんなに弱くてどうするの!」と反対に私を叱(しか)りました。
もっと大きな声で!
ある日、姉は別院のご輪番や僧侶の方にこう話しました。
「今までの私、がんになる前の私にとっては、浄土真宗のみ教えは、お料理に例えますと、お料理のサンプルが、とてもおいしそうに並んでいるようでした。目で見て楽しみ、食べてもいないのに喜んで、頭の中でいただいていたように思います。でも、今の私は違います。み教えの一語一語を、しっかりと手に取って、ひと味ひと味、かみしめていただいています。そのひと粒ひと粒が、私の心の栄養となり、生きるエネルギーです。これまでの聴聞の機会とご指導ありがとうございました」
お礼の言葉でした。姉は歩けなくなるまでお晨朝に通い続けました。やがて、痛み止めも効かなくなり、呼吸が苦しくて、夜も眠れない日々が続きました。そして絞り出すような声で、「この苦しみはね、お浄土に生まれるための苦しみだと思うのよね。お浄土に生まれさせていただくと思ったら、なんとかがんばらなくっちゃね! 私がこの世に生まれる時も、きっとこんなに苦しかったのね」と言いました。私は何も言えなくて、歯を食いしばって、ただただ、背中をさすり続けました。
その後、お正月を迎えることができた時は、本当にうれしそうでした。そして3月19日の夜、もうほとんど何も食べられなかったのですが、「私は明日、死ぬと思うから、体力をつけておこうと思うの」と言って、ゼリー飲料を一袋飲み干しました。
「ほら、一袋でごはん2杯分のカロリーだって! これで明日はがんばれる!」
翌20日、言った通り臨終でした。姉の願いで前日、僧侶の方に病室に来ていただき、臨終勤行をつとめました。病室に集まった、家族、友人、医師、看護師さん、お掃除のおばさんたちに、「最後に皆さまにお願いがあります。一緒にお念仏を称(とな)えてください」と言ったので、皆、戸惑いながらも、涙声でやっと「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお称えしました。
すると姉は「ああ、声が小さくて聞こえない。もっと大きな声で、元気を出して!」と。
皆、涙をこらえ、精いっぱいの声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお称えしました。
「ああ、よーく聞こえます。ありがとう! 私はお浄土で待っているから...さよなら...」と言って、姉はVサインをしてニッコリしました。私が思わず、「お姉ちゃん、ヤッタね!」と言うと、汗でキラキラ輝く顔で、「うん!」と大きくうなずいて、姉は息を引き取りました。
お浄土に生まれさせていただくことが、姉の人生の目標であり、それがそのまま生きるエネルギーでした。目標があったからこそ、苦しみも痛みも悩みもすべて乗り越えて、精いっぱい生き抜いたのだと思います。「お念仏」から、真の生きる勇気をいただくことができたのです。
(本願寺新報 2016年03月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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