深く知る、仏事・行事

いのちを終えるとどうなる?

2020/09/13

 「人間の一生は稲妻や朝露のようにはかなく、夢幻の間の楽しみである・・・私たちがいよいよ死ぬときには、かねて当てにしていた妻子も財産も一つもわが身につき添うものはない・・・」
 本願寺第8代蓮如上人もお手紙の中でこう述べられていますが、何も残らずすべて消えてしまうのであれば、たとえ世界がうらやむような人生を送ったとしても、結局はむなしい人生となってしまうのではないでしょうか。
 日本の歴史の中で最も出世した人は豊臣秀吉だと言われています。織田信長に仕えて大名となり、やがては天下を統一し関白・太政大臣にも叙せられるなど栄華を極めました。その秀吉がこの世を去る前に残した和歌は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢(露のように消えたはかないわが身であったことよ。大阪での栄華の日々は夢のようなものだった)」です。
 なんだか悲しい歌ですね。でも本当に、すべてを「夢」の一言で片付けて、安心して最期を終えられるのでしょうか?このいのちを終えると何も残らないのであるならば、私は何のために生まれ、何のために生きているのでしょう。


 このいのちを終えると、阿弥陀さまのお浄土にき、仏として生まれさせていただく

 浄土真宗のみ教えをいただくとき、真に生きる意味と生きる方向性が恵まれます。私がどのような人生を送ったとしても、それは等しく仏さまになるための歩みとなるのです。決してむなしいものではありません。
 人生100年時代と言われる一方で、無縁社会とも呼ばれる殺伐とした現代ですが、このいのちを終えると何も残らないというのであるならば、肉体的に衰えていく私の人生の終盤は、まさに意味のない、つらいものとなってしまうのではないでしょうか。
 それに対してお浄土に向かって阿弥陀さまのお育てをいただきながら、いのち終えるその時まで阿弥陀さまと共に、またお念仏のみ教えを喜ぶ人と共に歩んでいく。先人から受け継いできたこの生き方は、決して時代遅れの古くさいものではなく、なんとも贅沢なものなのではないでしょうか。
 「一つもわが身につき添うものはない」と言われた蓮如上人は、「だからこそ、阿弥陀さまをたよりにしなさい」と勧めてくださっています。
 浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海ほうかいみちみちて 煩悩ぼんのう濁水じょくすいへだてなし」(本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない)と詠われています。
 阿弥陀さまのよび声を聞かずに、「すべておしまい。何も残らない」を選ぶか、阿弥陀さまのよび声を素直に聞いて「阿弥陀さまのお浄土にき、仏として生まれる」を選ぶか。たとえ今私がどちらを選ぼうとも、私のために阿弥陀さまは変わらずはたらいてくださっています。

一覧にもどる