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「お彼岸」とは

2022/03/03

太陽の軌跡

 「彼岸」とは、さとりを開いた状態を意味する言葉です。もともと、インドの原語では「パーラミター」(波羅蜜多)といい、漢訳すると「 ( とう ) 彼岸」となり、さらにこれを日本語に直すと「さとりの境界に到達した」という意味になります。

 古来より仏教は、二つの形を通して、迷いの世界からさとりの境界へ向かう私たちの人生の歩みを見つめてきました。一つには、東から西へ沈む太陽の軌跡を、移り変わりの人生に ( たと ) えて。二つには、大河の深さと荒波を、人間の煩悩に譬えて...。

 一つは、中国の 道綽 ( どうしゃく ) 禅師の『安楽集』によれば、いにしえより人は、太陽の軌跡を人生になぞらえ、朝日が昇る東の方向に命の誕生を見つめ、夕日が沈む西の方向に命が終わる死を感じてきました。それは現代でも、人生の終わりを「晩年」と表現することからも想像できます。

 道綽禅師はそこで、阿弥陀さまは私たちにさとりの境界に仏と生まれる人生であることを教えるために、西方に浄土をお開きくださったと受け止めておられます。

 また、道綽禅師を師と仰がれた 善導 ( ぜんどう ) 大師の『 観経疏 ( かんぎょうしょ ) 』には、1年の中でも特に春分と秋分は、太陽の軌跡が真東から真西へ移動することから、阿弥陀さまの西方浄土を願生することに最も適した仏道修行の時節であると示されています。

大河の荒波

 二つには、お釈迦さまは私たちの人生を母なる大河・ガンジスに譬え、迷える苦悩の世界を「此岸」、さとりの境界を「彼岸」と表し、私たちの人生の目的は、迷いを超えて 生死 ( しょうじ ) の河を渡り、さとりの境界に到達することにあると教えられています。

 では、なぜ私たちの人生が大河に譬えられるのでしょうか。善導大師の『観経疏』には、「 二河白道 ( にがびゃくどう ) の譬え」が示されています。

 西方に向かって歩む旅人の目の前に、突如として「火の河」と「水の河」が行く手をさえぎり、その間には一本の細い白道しかありません。荒れ狂う「火の河」は、思い通りにならぬ時の人間の怒りの激しさ( 瞋恚 ( しんに ) )を表し、底知れぬ「水の河」は、人間のむさぼりの心の深さ( 貪欲 ( とんよく ) )を表しています。そこには、時の流れと複雑な人間関係の世の中で、正しい智慧を持たない私たちの心の暗闇( 愚痴 ( ぐち ) )が原因としてあるのです。

 そして、親鸞聖人は『教行信証』に、そのような苦悩に包まれた私たちの生死を ( おさ ) め取って捨てぬ西方浄土からの阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきは、まさに「渡りがたき苦悩の海を浄土へ渡す大いなる慈悲の船」であり、「すべてを平等に照らす太陽の如き智慧の輝き」であったと喜ばれ、お念仏ひとすじの道をお伝えくださったのでした。

先達に導かれ

 「お彼岸」は年に2度、3月の春分の日、9月の秋分の日を中日として、その前後3日ずつの1週間をご縁とした仏教週間です。浄土真宗では、お聴聞を通して阿弥陀さまの摂取不捨(摂め取って捨てず)のおはたらきを喜び、そのお徳を 讃嘆 ( さんだん ) しますから、彼岸法要は別名「讃仏会」という名で親しまれています。

 以前、次の詩に出会いました。
 「叱られた、ご恩忘れず、墓参り」浄土真宗の門信徒は、普段忙しくて時間と心に余裕のない方も、お彼岸には身近な方のお墓参りをご縁として、「なまんだぶつ...」(南無阿弥陀仏)とお念仏をいただきます。

 お念仏は、すべてを平等に包み取ってくださる阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただきますから、「お念仏をいただく」と申します。そのお慈悲の中で振り返ってみれば、親が私を思って「叱ってくださった」ことのご恩に気づかせていただくことができましょう。

 お彼岸には、ご先祖のご恩を偲びながら、それも私が仏法に ( ) うご縁であったと聞かせていただき、あらためて自分の人生と真っ ( ) ぐ向き合わせていただきたいものです。

中村 ( なかむら ) 英龍 ( えいりゅう )

広島市佐伯区・最広寺住職

(本願寺新報 2014年3月10日号掲載)

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