前門様のお言葉

春の法要 ご門主法話(ご親教)

法話2014/04/15

恩徳讃

 今年も皆さまとご一緒に、立教開宗記念法要をおつとめすることができました。

 立教開宗とは、親鸞聖人が「浄土真宗」という教えを確立され、その道を歩まれたことといえましょう。

 その教えは『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』というご著述に体系的に示されています。そこには、浄土真宗は阿弥陀如来のご本願のはたらきであり、この世でさとりを開かれた釈尊、お釈迦さまのご説法である『大無量寿経』などの浄土経典によって人間世界に現れたことが記されています。

 経典の奥義は龍樹(りゅうじゅ)菩薩をはじめとする七高僧によって次第に明確になり、親鸞聖人において「凡夫が仏(ほとけ)に成る教え」として完成されました。見方を変えますと、インドから中国大陸、朝鮮半島を通じて日本まで、高僧方が次々に阿弥陀如来のお徳を讃(たた)えられ、それを聞き、お念仏申してこられたことによって、阿弥陀如来の救いが伝えられてきたのです。それらは、ただ今ご一緒に拝読いたしました和訳「正信偈(しょうしんげ)」によって受け取ることができます。

 親鸞聖人以後、そして蓮如上人以後は、一層多くの方々がご本願に遇(あ)い、お念仏申して、阿弥陀如来の救いを讃え、伝えてくださいました。そのおかげで現代の私たちはお念仏申す身とならせていただきました。

 そのことを私たちは「恩徳讃」を歌う時に、しみじみと味わいます。でも、「恩徳讃」をご制作になったのは親鸞聖人ですから、ご制作当時は「師主知識(ししゅちしき)」の中に親鸞聖人は入っていませんでした。今、私たちはごく自然に親鸞聖人をその中に、あるいはその代表のように感じて「恩徳讃」を歌います。長い年月、聖人を慕う人々によってみ教えが受け継がれてきたからです。

 本日のご法要も、親鸞聖人の教えを讃えることによって阿弥陀如来の救いを味わい、教えを伝えてくださった方々に感謝する意味となりましょう。

伝統と己証

 「伝統と己証(こしょう)」という言葉があります。伝えられてきたことと、独自の受け取り方という意味です。親鸞聖人は信心、お念仏申すこと、往生浄土など、伝統を受け継いでいらっしゃいます。そして、その中に新しい意味を見つけられました。

 お念仏には、阿弥陀如来の喚(よ)び声が現れていること、この世では正定聚(しょうじょうじゅ)、浄土に生まれることに定まった仲間に入ること、とあらわされました。それは、阿弥陀如来の無条件のお慈悲、救いに遇うことによって、〝ただ定まる〟というだけではなく、今、難しい人生を阿弥陀如来に支えられ、導かれて生きることであります。

 さらに味わってみますと、正定聚とは今と人生の終わりとに区別がなくなることです。近頃、終活と称して人生の終わり方を考えることに、世の中の関心が向いてきました。実生活の上では意味のあることですが、この際さらに、いのちの根本についても考えたいものです。

 高齢になったり、不治の病を宣告されてからいのちを考えるのでは、遅いといえましょう。今、浄土に生まれることが定まるということは、常に、今の一時一時(いっときいっとき)が最期の時と同じであり、大切な時だと受け取ることです。それは、阿弥陀如来のおこころをいただくことによって、開かれてくる人生の受け取り方です。

広がるご縁へ

 親鸞聖人はご和讃に「真実信心うるゆゑに すなはち定聚(じょうじゅ)にいりぬれば 補処(ふしょ)の弥勒(みろく)におなじくて 無上覚(むじょうかく)をさとるなり」(『註釈版聖典』605ページ)と詠(うた)われました。

 今は弥勒菩薩と同じ位にあり、いのち終わった時、直(ただ)ちにこの上ないさとりを得る、つまり仏に成るのです。

 自分のいのちの尊さがわからないと、他のいのちの尊さもわからないといいます。今は弥勒菩薩と同じ位にあるのですから、他の人々や動植物のいのちを軽く見るわけにはいきません。縁起の道理によって明らかになるように、他のいのちとのつながりを断つことはできません。

 地球上の交流が密接になるほど、一人一人の責任、各組織の責任は大きくなります。同時代の中で、さらには将来のいのちへの責任も負わなければならなくなりました。柔軟な態度で相手の気持ちを理解し、受け止め、交流できれば、世の中はもう少し明るくなることでしょう。

 「結ぶ絆から、広がるご縁へ」という、宗門の実践運動のテーマをかみしめたいと思います。


本願寺新報2014(平成26)年5月1日号掲載
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