前門様のお言葉

御正忌報恩講 ご門主法話(ご親教)

法話2014/01/15

阿弥陀如来の恩徳を味わう

 今年も御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)をおつとめし、大逮夜(おおたいや)を迎えることができました。

 報恩講とは、宗祖親鸞聖人のご恩に報いるという意味ですから、ご恩こそ重要です。思い浮かびますのは恩徳讃、「如来大悲の恩徳は 身を粉(こ)にしても報ずべし 師主(ししゅ)知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」でありましょう。

 これは、親鸞聖人がお作りになったご和讃(『註釈版聖典』610ページ)ですから、師主知識とは、釈尊と七高僧をはじめとする高僧方になりますが、私たちは、親鸞聖人をそこに加えて味わうことになります。

 そして親鸞聖人のご恩とは、阿弥陀如来の救いを説いてくださったことですから、まず阿弥陀如来の恩徳を味わいたいと思います。 私たちは、「火宅無常(かたくむじょう)」といわれる迷いの世界に生きています。仏(ほとけ)に成ること、成仏が、釈尊以来、世界の仏教に共通する根本的解決です。しかし、現代日本では仏に成ろうと努力している方はありますが、この世で仏に成るのは至難のことです。

 浄土真宗の特色は、この世ではなく、お浄土での成仏に向かってこの人生を歩むことですから、まずはこの世を、阿弥陀如来のはたらきを受けて精いっぱい生きることです。阿弥陀如来は光明(こうみょう)無量、寿命無量ですから、空間と時間に限りがない如来さまであり、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の如来さまです。そして、阿弥陀如来がいらっしゃる国土が、お浄土です。それは、私たちがいる娑婆(しゃば)世界を超えていますから、阿弥陀如来も、お浄土も、そのはたらきも、直接見ることはできません。

 そこで、阿弥陀如来の智慧と慈悲は、お名前である「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」という人間界の言葉、お念仏となって、私の所に届けられました。自分の欲望に任せたままでは、迷いの人生を繰り返し、どこへ迷いこんでしまうかわからない人間です。この私を捨ててはおけないというお慈悲、「南無阿弥陀仏」が私の心に届くことが信心(しんじん)ですが、私の育てた心ではありませんから、他力の信心です。他力の信心が因(いん)、種(たね)となって、往生成仏というこの世の根本問題が解決されます。

 阿弥陀如来の救いは、釈尊、お釈迦さまの説法である経典によって、ご本願としてこの世にあらわれ、その真意が七高僧をはじめ多くの方によって次第に明らかにされました。それを受けて親鸞聖人が私たち凡夫にふさわしい教えとして開かれたのが、浄土真宗です。

 比叡山でのご修行、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)聖人のご教化(きょうけ)に遇(あ)われたこと、北陸へのご流罪、関東での伝道と『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などのご執筆、そして晩年の京都での「ご和讃」などのご制作と、どこを見ても阿弥陀如来の救いを私たちのため、私のために伝えてくださるご苦労でした。

五濁悪世の課題を担う

 時代は隔たりますが、私たちも阿弥陀如来に救われなければならない凡夫であることに変わりはありません。この世での救い、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)は、往生成仏が定まることであるとともに、今、阿弥陀如来のはたらきを受けて、五濁悪世(ごじょくあくせ)の課題を担うことでもあります。

 過去を顧みず、将来を憂えず、今さえよければいいという政治、人間の命を物やお金に置き換え自分さえよければという経済の論理、暴力、武力を使って自分の思いを遂げようとする個人、集団、国家など、課題はきりがありませんが、それぞれ私の生き方と深く関わっていることを思わせられます。

 東日本大震災の後、育ってきた自発的な民間の救援活動は、つらい世の中に輝く灯火の一つのように感じられます。それは、宗教の在り方にもさまざまの示唆(しさ)を与えました。真実の教えを伝える大切さはもちろんですが、受け取る立場に応じた対処方法が工夫されなければなりません。

 宗祖聖人がお出ましくださったおかげで、私が、往生浄土の道を歩ませていただけることをあらためて有(あ)り難(がた)く味わわせていただくことであります。これからも、阿弥陀如来のご恩、宗祖聖人のご恩に報いる日々を過ごさせていただきたいと思います。

本願寺新報2014(平成26)年2月1日号掲載
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