前門様のお言葉

秋の法要 ご門主法話(ご親教)

法話2013/11/23

共に往生浄土の道を

命の終わりは 仏に成ること

 昨日、本日と、全国門徒総追悼法要をおつとめすることができました。まず、この一年にご往生になった全国の門信徒の方々、浄土真宗にご縁のあった方々を偲び、先(さき)、後(あと)の違いはあっても、同じ往生浄土(おうじょうじょうど)の道を歩ませていただく縁を、味わわせていただきましょう。

 仏教の基本は、生老病死(しょうろうびょうし)という厳しい現実を見つめるところから始まります。生(しょう)は生まれること。老は老いること。病は病気。死は命尽きることです。中の2つを略して、生死(しょうじ)とも申します。迷いの生存を意味します。

 世の中一般には、誕生はおめでたいことであり、命の終わりである死は厭(いと)うべきこと、悲しいことですが、人生がおめでたいことで始まり、つらいことで終わるだけでは、むなしいことになるのではないでしょうか。

 そこで、誕生は仏法に遇(あ)うための始まりであり、人生は仏法を聞くためにある。命の終わりは成仏(じょうぶつ)、仏(ほとけ)に成ることである。と受け取り直すと、意味が変わってきます。

 仏教が目指すのは、生死を超えること、仏に成ることです。現代日本では僧侶も含めまして、仏に成りたいと思っている方は多くはないようですが、アジア各地の出家の僧侶は、本気で仏に成りたいと願っているようです。日本にいますとわかりにくいのは、仏に成るとはどういうことかよくわからない、感じられないからではないでしょうか。

生死の現実を ありのままに

 仏さまとは、「生死を超えてさとりを開いた方、完全な智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を身につけて人々を救ってくださる方である」という言葉を理解するとともに、身近には、この世で仏に成られた釈尊、お釈迦さまのこと。そして、お寺のご本尊として安置されている仏像の柔和で智慧に満ちたお姿、本願寺でいえば、この阿弥陀堂の阿弥陀如来さまを思い浮かべたいと思います。

 煩悩の束縛を離れて自由な境地に到達した方ですから、人々を救う仕事でさえ悩み苦しみではなく、執(とら)われを離れた自由な活動であります。

 他方、私たちは生老病死という現実をありのまま受け止める必要があります。長寿を全うされた方でも、ご本人、周囲は、満足とは言えません。いわんや、戦争で、大震災で命が失われました。幼い子、青少年が事故や病気で亡くなりました。このままでよいと言えるでしょうか。

もう一歩深く 人生の意味を

 親鸞聖人は「すみやかに疾(と)く生死海(しょうじかい)(生死の海(うみ))をこえて仏果(ぶっか)にいたる(仏のさとりにいたる)」(註釈版聖典712ページ)とおっしゃっていますが、仏に成るとは生死を超えることです。私を往生成仏させてくださる阿弥陀如来のはたらきを受けて、仏さまに成る道、往生浄土の道を歩むことによって、迷いの生死にありながら、迷いに沈んでしまわない人生となります。

 追悼法要をおつとめすることは、この世にいる私たちに先立って生死を超えられた方々、仏さまに成られた方々を思い、私たちも同じお念仏の道を歩ませていただく思いを新たにするご縁であります。聴聞を重ねた方であれば念仏者の先達でありますが、いまだ聴聞に縁の薄かった方も、私に人生が成り行き任せではもったいない、もう一歩深くその意味を知って恵まれた命を生き抜かねばならないと教えてくださった先輩と言えるでありましょう。

 「御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)」という言葉は、今日、広い意味でも用いられますが、由来は同じ往生浄土の道を歩む友という意味から始まっています。地域社会が安定、固定していた時代には、ご門徒が集まってお葬式をすることは自然なことだったと思います。今、世の中が流動化して、同じようにはできなくなってきました。ですから、生活の場としては離れていることは避けられませんが、お念仏を通じて精神的なつながりを保ち、支え合う方法を工夫できないでしょうか。

 浄土真宗の教えに生きる者には、人生が終わると天国に生まれたり、冥土(めいど)に生まれたりするのではなくて、往生成仏するのだと考える、迷信にとらわれない生き方があるなど、共通の考え方があります。それは、人生のさまざまの出来事に際して、支え合う上で大きな力になることでありましょう。

 お念仏申して、共に往生浄土の道を歩ませていただきましょう。

本願寺新報2013(平成25)年12月20日号掲載
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