前門様のお言葉

春の法要 ご門主法話(ご親教)

法話2013/04/15

「ともに凡夫」支え合いたい

他力によってめぐまれる信心

 今年も皆さまとご一緒に、立教開宗記念法要をおつとめできました。立教開宗とは、親鸞聖人が関東、今の茨城県で『教行信証』という書物を執筆され、浄土真宗という教えを確立し、独自の道を歩み始められたことをいいます。

 その教えの骨子は、阿弥陀如来のはたらきが、往相(おうそう)、お浄土に往(ゆ)く姿と、還相(げんそう)、お浄土からこの世に還(かえ)ってくる姿となること。お浄土に往かせてくださるはたらきは、教(きょう)(大無量寿経の教え)、行(ぎょう)(南無阿弥陀仏)、信(しん)(他力の信心)、証(しょう)(仏(ほとけ)のさとり)として与えられることです。

 その要点は、先ほどお唱えいたしました和訳正信偈の中に、「浄土にうまるる 因も果も 往くも還るも 他力ぞと ただ信心を すすめけり」とありましたように、私は、阿弥陀如来のはたらきである他力によって信心をめぐまれ、往生成仏させていただくのです。

 大事な点は、今、ここに信心をめぐまれたことにより、往生が定まること。往生浄土の道を歩む身となることです。それは、お念仏申しながら、この世のさまざまの課題を担い、それに応(こた)える人生です。

仏法学ぶことで私の姿を知らされる

 近年の大小の出来事を思いますと、この世の課題に応えるといっても、なかなか難しいことがわかります。

 突き詰めて考えますと、凡夫は何一つ善い行いができないのだから、ただ阿弥陀如来におまかせするばかりとなります。自分の力ではどうしようもない苦難にあったとき、阿弥陀如来は私を支え、導くたのもしいはたらきです。私のすべてを受け容れてくださるからです。しかし、往生成仏という目標だけに閉じこもると、仏法と生活とが切り離されてしまいます。

 震災直後の被災者に、生活の手助けをせずにただ仏法だけを説いても、受け容れられません。日常生活で、どうせ善いことはできないのだから、何をしても、何もしなくても同じだということになれば、自分の欲望に歯止めがなくなったり、社会の現状をそのまま認めて、苦しむ人々のことを考えなくなったりします。それでは、往生成仏と自分中心の私利私欲との区別が曖昧(あいまい)になります。

 仏さまのおさとり、成仏とは、今さえよければとか、自分さえよければ、仲間さえよければという自己中心的な在り方が転じられて、差別なく物事を知る智慧(ちえ)と、他の生きとし生けるものを救うという慈悲(じひ)のはたらきを得ることです。ですから、仏法を学ぶことは、仏さまから隔たった私の姿を知らされることであり、だからこそ、仏になるという指針、目標を持つのです。

 この世の生活には、絶対に正しいということはありませんし、時代と共に善悪の基準が変わることもあります。その中で、仏法を基準に、時や所で変わることのないよりよい道、一時的な慰めではない根本的な解決を求めていくことが、仏教徒の生活といえましょう。往生浄土のために役立てるのではなくて、この世を生きる上での願いです。

 残念ながら立派な目標を立てても、簡単に実現しないのが凡夫の私です。それでも、阿弥陀如来が支えていてくださる、受け容れてくださるという安心から、精いっぱい精進、努力することでありましょう。

 凡夫という自覚は、言い訳の言葉ではありません。「ともにこれ凡夫」として、自分を認め、他人を認め、支え合いたいものです。

 立教開宗の趣旨を思いつつ、お念仏の日々を過ごさせていただきましょう。

本願寺新報2013(平成25)年5月1日号掲載
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