前門様のお言葉

秋の法要 ご門主法話(ご親教)

法話2012/11/23

往生浄土の道を歩む者として

仏教のめざすところは 仏になること

 今年も有縁の皆さまとご一緒に、全国門徒総追悼法要をおつとめすることができました。阿弥陀経を拝読し、お念仏申して、この一年にご往生になった全国のご門徒の方々を偲ばせていただきましょう。

 私個人として一年を顧みますと、多くの方にお別れいたしました。その中には、本願寺派のご門徒もあり、そうでない方もいらっしゃいます。皆さまも、同じことでありましょう。ですから、個人の情だけでは、他宗、他門の方と区別して、門徒総追悼法要という枠をはめることは、かえって窮屈になります。

 思いますに、本願寺でこの法要をおつとめする意義は、共に往生浄土の道を歩み、先だってお浄土に生まれた方を、いまだこの世の道を歩んでいる私たちが偲び、慕い、後をたどることにありましょう。

 往生浄土は成仏、仏に成るためです。単純に楽しいあの世に生まれることをめざすだけでは、煩悩そのものです。煩悩のままでは、彼の世で会いたい人もありますが、会いたくない人も出てきます。仏に成ってこそ、倶会一処(くえいっしょ)、倶(とも)に会うことの良さ、すばらしさがわかります。 仏教のめざすところは、仏に成ることです。それは、今の私が、三つの毒である、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろ)かさという煩悩にまみれているからです。

 人間は一人ひとり、違った人生を歩みます。他人が見て羨(うらや)むような恵まれた人生もあり、辛(つら)かったに違いないと思われる人生もあります。ご当人の思い、内面はまた違っているかもしれませんが、それらの違いを超えて同じ往生浄土の道を歩む者と受け止めるところに、追悼法要の大切な点の一つがあると思います。

独りぼっちで浄土に行くのではない

 浄土真宗では、法要のおつとめの最後に、回向(えこう)と呼ばれるご文があります。今日は「願以此功徳(がんにしくどく) 平等施一切(びょうどうせいっさい) 同発菩提心(どうほつぼだいしん) 往生安楽国(おうじょうあんらっこく)―願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、同じく菩提心を発(おこ)して、安楽国に往生せん」を拝読いたしました。

 これは中国の善導大師(ぜんどうだいし)の、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の註釈(ちゅうしゃく)にあるご文(註釈版聖典七祖篇299ページ)ですが、同じ善導大師の他の書物には「願共諸衆生(がんぐしょうじょうじゅ) 往生安楽国―願はくはもろもろの衆生と共に安楽国に往生せん」ともあります。

 「同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」「もろもろの衆生と共に安楽国に往生せん」というように、私が独りぼっちでお浄土へ行くのではありません。共に行くのです。ですから、御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)と呼び合うことができます。

 その中で、たまたま先だって往生された方を後に続く者が、追悼法要という形で慕うことになります。それが可能になるのは、ひとえに阿弥陀如来の智慧と慈悲である南無阿弥陀仏のはたらきに依(よ)るからです。南無阿弥陀仏が届いたところが、信心です。

お寺を中心とした つながりを生かす

 大震災以来、絆という言葉がしばしば用いられるようになりました。絆という言葉はもともと、動物をつなぎ止める綱という意味があるようです。今まで日本では、さまざまの束縛を離れ、他人の干渉を避けて、自由に生きることをめざしてきました。そこから、孤独死などの問題が生まれました。大震災以来、さまざまのつながりが命を助け、生活を助けることに気付き、絆が見直されています。しかし、単純に昔に戻ることは難しいでしょう。個人を尊重しつつ、支え合う方法を工夫しなければなりません。

 その一つとして、お寺を中心としたつながりを活かすことができれば、有り難いことです。そして、それが閉鎖的なつながり、支え合いではなく、ご門徒でない方へも広がっていくならば、現代に持つ意味は大きいと思います。 往生浄土の道を歩む者として、先だって往かれた方々、今、共に歩む方々、そして他の宗教信条を持つ方々をどのように受け止め、私が生きるかを考える機会にしたいと思います。

本願寺新報2012(平成24)年12月20日号掲載
(WEBサイト用に体裁、ふりがな等を調整しております)