前門様のお言葉

御正忌報恩講  ご門主法話(ご親教)

法話2011/01/15

大遠忌でお念仏に生きる喜びを確かな依りどころ得て、共にお浄土への道を歩む

仏教は仏になる教え。今の苦しみとの関係は?

 皆さまとご一緒に、宗祖親鸞聖人の749回忌に当たる御正忌報恩講をおつとめし、今日、大逮夜を迎えました。

 本願寺では4月から、750回忌の報恩講である大遠忌をおつとめいたします。このたびの報恩講では、親鸞聖人のお徳を偲び、一年を振り返り、これからの日々をお念仏と共に過ごす思いを新たにいたしましょう。その上で、大遠忌にお参りしたいと思います。

 仏教は、仏になる教えです。単純に考えまして、仏さまになりたいと思っている方がどのくらいいらっしゃるでしょうか。今、さまざまな悩み、苦しみを抱えている方は少なくないと思います。そのことと、仏になることとがどのように関係するのでしょうか。

 仏になるとは、生死(しょうじ)を超えること、真実の智慧と慈悲を得ることですから、日々の暮らしの上の不都合を単純に解決することではありません。まず、この世のことはこの世の方法で解決を図るのが当然です。

 しかしながら、それだけでは解決できない問題が少なくありません。その代表が「老・病・死」です。自分の老・病・死は、受け入れたくないことであり、他人の老・病・死を救うことができない場合も少なくありません。

 また、世の中のことで失敗をしたからといって、過去を取り消すことはできません。さらに広げますと、世の中の争いは、尽きることがありません。そこに、仏になることの意味があります。

 仏になるとは、この現実を超えることであり、翻って、現実の世界にはたらきかけることです。

 宗祖親鸞聖人はこの解決を、阿弥陀如来のお救いとして身に受けられ、私たちに教えてくださいました。真実がわからないまま、欲望に引きずられて生きている私は、この世の苦しみを無くしたいとは思いますけれども、菩提心(ぼだいしん)、仏になりたいという思いは簡単にはわいてきません。

聴聞の縁を得て、仏にならせていただく意味を知らされる

 親鸞聖人がご和讃に詠(うた)われるように
 「自力聖道の菩提心
  こころもことばもおよばれず
  常没流転(じょうもつるてん)の凡愚(ぼんぐ)は
  いかでか発起せしむべき」
  (註釈版聖典603ページ)
であります。

 このような私が、仏法を聞く、聴聞するという縁を得て、お浄土で仏にならせていただくことの意味を知らされます。

 この世で仏になるわけではありませんから、老・病・死の苦しみが消えるわけではありませんけれども、お浄土からのはたらきである、阿弥陀如来の智慧と慈悲に遇(あ)うこと、他力の信心を恵まれることにより、現実を認め、あるいは受け入れて、往生成仏の道を歩むのです。
 「十方微塵(みじん)世界の
  念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる」
  (同571ページ)
というご和讃のとおり、お念仏申す身になることは、いつでも、どこでも、阿弥陀如来に喚(よ)ばれていることであり、包まれていることであります。

 不安な人生、限りあるいのちにもかかわらず、往生成仏という確かな依りどころを得て、人間同士、困った時には率直に助けを求める、悩みを共にするのです。自分へのとらわれを捨てることはできませんが、人々の苦しみを捨ててはおけないという阿弥陀如来のおこころを受けて、共にお浄土への道を歩むのです。

 そこでは、自らのいのちの大切さを知り、他のいのちの大切さに気付かされます。

 この春からの大遠忌法要では、各月8日間、前半の4日はお正信偈の要旨を和讃で表したおつとめ。後半の4日は従来の節のお正信偈を中心にした音楽法要です。それぞれのご縁、できれば両方のご縁にあっていただき、親鸞聖人のお徳を讃え、お念仏に生きる喜びを共にしたいと願っております。

本願寺新報2011(平成23)年2月1日号掲載
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