前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2010/11/23

お念仏が人々を結ぶ縁断ち切ると人生の潤いなくす

今解決しなければならないこと

 今年も皆さまとご一緒に、全国門徒総追悼法要をおつとめすることができました。

 まず、この1年にご往生になった全国のご門徒の方々を偲(しの)び、あらゆるいのちを救わずにはおかないとはたらいていてくださる阿弥陀如来のお徳を味わいましょう。

 家族・親族・知人と、近い方から思い浮かぶのは自然ですが、できるだけ思いを広げて、お念仏の縁でつながっている多くの方々とのこの世での別れ、そして、この世を超えたつながりを味わいたいと思います。

 そのためにはまず、人ごとではなく、私のいのちを省みなければなりません。「独り生(うま)れ独り死し、独り去り独り来(きた)る」(註釈版聖典56ページ)と説かれるように、自分で解決しなければならないいのちです。阿弥陀如来の救いである南無阿弥陀仏は、今、ここにはたらき、生死(しょうじ)を超えたさとりへと喚(よ)んでいてくださいます。

 今解決しなければ、間に合わなくなるかもしれません。ここに、先立った方々が私に教えてくださっていることを受け取ることができます。

私のいのちはだれのもの?

 あとひと月余りになりました今年を顧みますと、「孤独死」、独り住まいのままいつ亡くなったかわからないまま時が過ぎてしまった方々のことが思われます。今日のような個人が孤立した社会では、人ごとではないと多くの方の注目を浴びました。念仏者が、お寺が、そして宗門が、どうしたら力になれるかを考えさせられました。

 さらには「お葬式は要らない」「お寺は要らない」という言葉が出版物にあらわれました。それだけ伝統仏教への信頼が落ちたといえましょう。時代の変化に対応できない仏教教団の深刻な課題があります。

 これらを考えます時、一つは、私の人生、私のいのちは、私だけのものであろうかということです。

 この世の物事はすべて、相依(あいよ)り成り立っているという縁起の道理に照らして考えますと、私のいのちは今現在、さまざまの条件が集まって成り立っているだけではなくて、遠い過去から今日までのさまざまの縁で成り立っています。それは、形ある縁だけではなく、精神的な縁、人類の知恵や個人の思い出もあります。

 それらの縁を、私が断ち切ってしまうことは、人生が潤いをなくし、社会を孤立した人間の集まりにしてしまうでありましょう。

お念仏縁として温かいつながり

 お念仏喜ぶ者は、往生浄土が定まった人々の仲間「正定聚(しょうじょうじゅ)」と呼ばれます。集まり、仲間という意味の「聚」の文字が付いているのは、お念仏が人々を結ぶからです。阿弥陀如来の大きな、広いお慈悲の中に包まれているのです。

 確かに、生・老・病・死の根本問題は、他人に代わってもらえない私の課題です。しかし、同じ道を先に歩む人、後から歩む人、それぞれ同じ道を前後して歩むところに、支えられ、励まされるのです。縁を切ることは、自分が孤立するだけではなく、他人をも孤立させます。

 親鸞聖人は主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に、曇鸞(どんらん)大師のお言葉を引用して「同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海(しかい)のうちみな兄弟とするなり」(同310ページ)と記していらっしゃいます。

 お浄土に往生するのは、この世の縁が尽きた時です。しかし、往生が定まるのは、この世にある時です。今、往生が定まることによって知らされることは、阿弥陀如来によって包まれた私、阿弥陀如来によって他のいのちとつながった私です。

 お念仏を縁として、お寺を縁として、また宗門を縁として、人々の温かいつながりを育てたいと思います。

本願寺新報2010(平成22)年12月20日号掲載
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