前門様のお言葉

御正忌報恩講 ご門主法話(ご親教)

法話2010/01/15

摂(おさ)め取って捨てず今ここに阿弥陀如来に包まれる

修復が完成した御影堂で御正忌

 今年も皆さまとご一緒に御正忌報恩講をおつとめし大逮夜となりました。

 昨年まで10年間かかりました大修復が無事完了し、再びこの御影堂で御正忌をおつとめできましたことは大きな喜びでございます。関係者のご尽力、有縁の方々のご協賛の賜物(たまもの)と誠にありがたく存じます。宗祖親鸞聖人を偲(しの)び、お徳を讃えるのにふさわしい条件が整いました。

 このたびの御正忌のお日中法要、午前のおつとめは6日とも、大遠忌を目指して新たに制定されたご和讃中心の「宗祖讃仰作法(しゅうそさんごうさほう)」でした。大遠忌までに親しんでおいていただきたいと思います。

不安高まる社会 煩悩だらけの身

 50年前の大遠忌法要の頃は日本の敗戦から15年余り、社会が安定し始めた頃ではありましたが、政治の対立は顕著でした。平和な世の中を願いつつご参拝になったことだと思います。

 近年はよく言えば成熟した社会ですが、批判的に言いますと経済成長を目指して歩んできた社会が、さまざまのほころびを見せていると言えるのではないでしょうか。生活の不安とともに社会不安、人生についての不安が高まっているように見受けられます。自らの生き方に自信が持てず、周りの人々を信用できず、監視や批判、攻撃が目立つようになりました。

 親鸞聖人のお心をうかがってみますと、この世は「無明煩悩(むみょうぼんのう)しげくして 塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す 愛憎違順(あいぞういじゅん)することは 高峰岳山(こうぶがくざん)にことならず」(註釈版聖典601ページ)。真実を知らず、欲望は激しい、愛と憎しみ、妬(ねた)みが繰り返されているとおっしゃっています。今も変わらない嘆かわしい姿ですが、人ごとではありません。 

 そうであるからこそ阿弥陀如来はご本願をたてられました。でも直ちに私たちを戒め改めるようにと命じていらっしゃるのではありません。

お念仏申しつつ支えあい生きる

 「煩悩具足(ぐそく)と信知(しんち)して 本願力に乗(じょう)ずれば すなはち穢身(えしん)すてはてて 法性常楽証(ほっしょうじょうらくしょう)せしむ」(同591ページ)。煩悩いっぱいの私であると知らされ、ご本願の救いにまかせるならば、迷いの身を捨ててお浄土でのさとりを得させてくださると、詠(うた)われます。

 人生の完成はお浄土でのさとりですが、この世で阿弥陀如来のご本願、智慧と慈悲のはたらきである南無阿弥陀仏をいただくことが信心であり、往生浄土が決まることです。

 それは同時に、今ここに阿弥陀如来に包まれ支えられていることです。「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、摂(おさ)め取って捨てずと言われますように、この身は阿弥陀如来に摂め取られています。

 この世の生活では自分の力で解決できることはもちろん努力すべきですが、凡夫である私にはさまざまの限界があります。そのことをわきまえてさまざまの悩みを抱える私たちが支えあって生きる道を探し出すことが大切ではないでしょうか。孤立した人間が生きることは誠につらいことですし、一人では問題の解決が一層困難となります。ともに阿弥陀如来の光に照らされ包まれた凡夫として、お念仏申しつつ精いっぱい生きたいと思います。

本願寺新報2010(平成22)年2月1日号掲載
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