前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2009/11/23

先人が示した人生から仏教の根本課題を学ぶ
迷うことも、過ちを犯すこともあるからこそ 南無阿弥陀仏

同じお念仏の道を歩む

 今年も有縁(うえん)の皆さまとご一緒に秋の法要、全国門徒総追悼法要をおつとめすることができました。このご法要は毎年、この阿弥陀堂でおつとめしておりますが、今年はお隣の御影堂の修復が終了し、さらに周囲の建物の解体、新築が行われましたために、白洲(しらす)の様子が一変いたしました。白洲を飾っています献菊展、菊の花も昔に戻って広々とした場に移りました。

 「追悼」とは辞書に「死んだ人を偲び、その死を悲しみ、悼む」とありました。本日は門徒総追悼法要ですから、宗門に関係のある方々すべてを追悼する法要です。個人的に知っている方も、知らない方もお念仏の縁のあった方々を思い、追悼の字の「追」のように後を追う、後に続くという思いを育てたいと思います。

 「生きる」と「死ぬ」とは正反対のように見えますが、見方を変えますと、同じ道を一歩先に行かれた方と、一歩後にいる私の違いとも言えます。お念仏とともに歩まれた先人を偲び、私も同じお念仏の道を歩むという思いを深めたいと思います。その先頭には親鸞聖人がいらっしゃいます。

"いのちの重さ" 感じとりにくく

 現代の日本は高齢化社会です。かつては長寿は自他ともに望ましいことであり、おめでたいことでした。しかし、今日課題となる点が目立ってきました。

 宗門に関係するところでは、お葬式についての考え方が変わりつつあります。親と同居をしていない子ども、祖父母と同居していない孫、お付き合いの薄い周囲にとって、高齢者が亡くなっても愛別離苦の悲しみが薄い場合が多くなり、丁重に葬儀をつとめる意味がわからなくなりました。若い人、幼い子にとって老病死を身近に体験することがなくなり、いのちの重さが感じ取りにくくなってしまいました。

救わずにはおかない

 追悼法要は、先人が身をもって示してくださった人生から、私が自分のいのちについて考えを深め、生死(しょうじ)を超えるという仏教の根本課題を学ぶ大切なご縁です。

 長い人生、長くはない人生、一人一人違いますが、一日一日の大切さ、ひとときひとときの大切さは同じです。むなしく時を過ごしては誠に残念です。迷うこともあり、過ちを犯すこともあります。そうであるからこそ、救わずにはおかないと喚(よ)んでくださる阿弥陀如来の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)のはたらき、南無阿弥陀仏です。

 「十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(註釈版聖典571ページ)と親鸞聖人はご和讃に詠(うた)われました。

 欲望、煩悩の拡大を目標に生きるのではなく、ひとときひとときを自分のためとともに同時に他人のために、他のいのちのために生きることができれば、ともにいのち輝く世界へとなっていくでありましょう。南無阿弥陀仏とお念仏申し、先人を偲び、わが身をふり返らせていただきましょう。

本願寺新報2009(平成21)年12月20日号掲載
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