前門様のお言葉

大谷本廟 親鸞聖人750回大遠忌法要 ご門主お言葉【2009(平成21)年10月12日から16日】

法話2009/10/15

まず、聖人のご廟に跪(ひざまず)く

大遠忌法要におけるご門主の「お言葉」(全文)は次の通り。15、16日は龍谷会(え)を踏まえ、「宗祖讃仰(さんごう)作法を縁にご和讃に親しんでほしい」と加えられている。

願っているだけでは安穏にならない

 本日は有縁の皆さまとご一緒に、親鸞聖人750回大遠忌法要をおつとめすることができ、誠にありがたく存じます。

 本願寺でおつとめいたします法要に先立って、本廟でおつとめすることが慣例になっていますのは、まず、宗祖親鸞聖人のご廟に跪(ひざまず)いて、ご往生になったという事実から、ご生涯を偲び、本願寺の起源を確かめつつ、本願寺での大遠忌をお迎えするということでしょうか。

 宗門では、ご法要のスローガン(標語)を「世のなか 安穏なれ」と決めました。宗祖のお手紙に「御報恩のために、御(おん)念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候(そうろ)ふ」(註釈版聖典784ページ)とあるところに基づいています。

 「世の中が安穏であってほしい」というのは、ほとんどの人の願いだと思います。しかし、願っているだけでは、世の中は安穏になりません。無数の人間が世の中を作っているからです。

 しかも、その人間の一人である私はどうでしょうか。私の願いや欲望をそのままにして、安穏な世の中を実現することは難しいと思います。

善人の反対である私に気付くことから

 仏教は基本において、私の在り方を省みるところから始まります。それは、ものみなすべて移り変わる世の中にあって、私自身も移り変わっていくこと。真実を知る確かな智慧を持たず、貪(むさぼ)りに限りがないという在り方です。

 「如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就せり」(同606ページ)。本日のご法要で一番目に拝読したご和讃です。

 親鸞聖人の教えの根本は、阿弥陀如来の願いにあります。阿弥陀如来は、不安定な人生を生きる私の姿を見抜いて、確かな依りどころであるお浄土でのさとりへと導いてくださいます。阿弥陀如来の智慧と慈悲のはたらきである南無阿弥陀仏が、私に届いたところが信心です。

 「十方諸有(じっぽうしょう)の衆生は 阿弥陀至徳の御名(みな)をきき 真実信心いたりなば おほきに所聞(しょもん)を慶喜(きょうき)せん」(同560ページ)。これは、4首目にお唱えいたしました。

 南無阿弥陀仏を受け取ること、南無阿弥陀仏と申す身になること。それは、阿弥陀如来に喚(よ)びかけられている私にめざめることであり、人生の依りどころを得ることです。

 阿弥陀如来のおこころをいただくことによって、人生には深まりと広がりが生まれます。私が立派な人間になるとか、善人になることではなくて、その反対であることに気付くことから、共に手を取って歩む道が開かれます。  

 善人だけで作る世の中は、善人でない者を排除します。人間だけでなく、動物も植物も、さまざまのいのちがあって成り立つ地球です。

 今日、人間だけが資源を貪り、勢力を拡張し、環境を大きく変えています。しかも、その人間の社会で、格差は激しく、暴力は後を絶ちません。格差・貧困と戦争・紛争は一対です。節度ある社会、節度ある私の生き方を築かねばなりません。

 阿弥陀如来のおこころに遇(あ)えた喜び、お念仏申す喜びを分かち合い、すべてのいのちが輝く世の中をめざして日々を過ごさせていただきましょう。

本願寺新報2009(平成21)年10月20日号掲載
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