前門様のお言葉

春の法要(立教開宗記念法要)  ご門主法話(ご親教)

法話2009/04/15

御真影中心に歩む本願寺
御影堂で親鸞聖人通し如来のおこころを

10年ぶり御影堂で

 一昨日より3日間、浄土真宗の立教開宗記念法要をおつとめいたしました。

 親鸞聖人を宗祖、あるいは御開山(ごかいさん)聖人と申し上げるのは、立教開宗、すなわち浄土真宗をお開きくださったからです。

 仏教は、この世では2500年前のお釈迦さまのおさとりに始まりますが、時代と場所を移しながら、さまざまな教えや姿をとってあらわれてきました。

 阿弥陀如来のお救いは、時と所を超えたものですが、親鸞聖人において、最もわかりやすく、また、受け取りやすくあらわれました。

 今年の立教開宗記念法要は、10年ぶりで、この御影堂でおつとめできました。無事工事が完成しましたこと、多くの方々のおかげと、まことに有り難く、感謝いたしております。

御影堂の意義とは

 申すまでもなく御影堂は、親鸞聖人の御真影(ごしんねい)さまを安置する御堂(みどう)です。今年は、御影堂の意義を考える上で、ちょうどよい時だと思います。

 歴史をたどりますと、本願寺は京都の東山のふもとにあった宗祖の御廟(ごびょう)、お墓に始まります。本願寺第3代の覚如上人は、遠方のご門弟が諸国より多くお参りし、「廟堂に跪(ひざまず)きて涙を拭(ぬぐ)ひ、遺骨を拝して腸(はらわた)を断つ」(註釈版聖典・1072ページ)とおっしゃっています。

 その後、第8代蓮如上人の時、各地にお念仏の輪が広がりましたが、そのために他のお寺や人々との間に摩擦が起こり、御廟所と御真影さまが離れてしまいました。そして、本願寺は、御真影さまを中心に歩んできました。

 それは、ご遺骨を超えて、生きていらっしゃる親鸞聖人にお目にかかるという気持ちではないでしょうか。

 宗門が進めています基幹運動の一つである門信徒会運動は、50年ほど前、「形ばかりの僧侶、名ばかりの門徒」というわが身の姿を反省するところから始まりました。それは、教えが十分に身についていない、伝わっていないということでもあります。

 ところが、教えとは何かと考えると、簡単ではありません。つい、複雑な理論や難しい専門用語を並べることと思いがちです。確かに、「ご本願」とか「南無阿弥陀仏」という言葉なしという訳にはいきませんし、「他力回向(たりきえこう)の信心」という基本的な筋道を外すこともできませんが、大事なことはむしろ、言葉を通して、言葉を超えた阿弥陀如来のはたらき、あるいは願いを受け取ることです。

 言い換えると、私を見捨てておけないというやむにやまれぬ阿弥陀如来の思いが届くことです。それは、私が出会う人間、人格を通じた言葉によって伝わります。

 御影堂にお参りすることは、親鸞聖人のご生涯と一つになった教えを通して、阿弥陀如来のおこころを聞かせていただくことだといえましょう。

先人方と同じ道を

 確かに、阿弥陀如来のお救いである南無阿弥陀仏は、地球上のみならず、宇宙のどこにいても私のためにはたらいていてくださいます。親鸞聖人のお言葉も、どこでも学ぶことができましょう。それらを踏まえた上で、御影堂で御真影さまにお礼をすることの味わいがあるといえます。

 その一つは、宗祖のみ跡を慕い、ご本願を信じ、お念仏申して歩まれた数限りない先人の方々にならい、私も同じ道を歩ませていただくということでありますし、後に続く方々にも同じ道を歩んでいただきたいということでもありましょう。

 世界の経済は、80年前の大恐慌以来の不況といわれますが、日本に限りますと、60年前の敗戦後の混乱がありました。先人は、それを乗り越えてこられましたが、今思うと、資源を大量に消費する経済に中心があり、生き甲斐があったように思います。

 この際、仏教の智慧を生かして、地球上のいのちが持続して生きられる道を考えるべきではないでしょうか。お念仏申しつつ、ともにいのちかがやく世界をめざしましょう。

本願寺新報2009(平成21)年5月1日号掲載
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