前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2008/11/23

浄土真宗は生死を超える
ダイヤモンドのような信心一つでお浄土に

お念仏を通じて会える世界

 今年も、秋の法要、全国門徒総追悼法要をおつとめすることができました。

 境内白洲(しらす)では、お荘厳のように菊の花が美しく咲く中、ご一緒に阿弥陀経を読誦(どくじゅ)し、お念仏申し、この1年にご往生になった方々を偲ばせていただきました。

 ご参拝の方々も、それぞれに思い出があり、感慨がおありのことでしょう。本願寺でおつとめいたします総追悼法要ですから、直接に知っている方も知らない方も、皆お念仏の友、御同朋御同行として、等しく追悼のの思いを持ってつとめさせていただきました。

 まず思いますことは、亡くなられた方は、この世で形あるものとしてはもう会うことができませんが、阿弥陀如来の光の中にあるものとして、お念仏を通じて会えるといえるのではないでしょうか。私たちは、肉眼で見える世界だけに生きているわけではありません。

弱者追い詰める社会の在り方

 次に、往生された方、亡くなられた方についての思いです。身近な方については、別れの悲しさとともに、なすべきことがあったのではないか、できなかったのではないかと悔む気持ちがたくさんあると思います。急いで解決するのではなく、時間をかけて受け止めていかねばなりません。時期を見て周囲が支えることは大事だと思いますが、安易な励ましは、かえって遺族を傷つけることが多いと聞きます。いつも善意が通じるとは限りません。

 また、近年日本では、自ら命を絶つ方の数が多いことが心配され、宗門でも対応について検討されつつありますが、遺族の方々の心の傷を思いますとき、周囲の態度は慎重でなければなりません。弱い者を追い詰める社会の在り方そのものを、考え直さねばならないとも思います。

死や老いを我がこととして

 次に、私自身のこととして、生死(しょうじ)無常のことわりを知らせていただくということがあります。知識としてはわかっていても、なかなか我がこととして受け止めることができないのが私です。自分と年の近い方、自分より少し若い方が亡くなって、ようやく我が身を省みることになります。

 今日の世の中は、アンチ・エイジングと称して、年を取ることを避ける、あるいは抵抗しようとする風潮があります。いつまでも若々しく健康でいたいというのは当然のことですけれども、老いることや死ぬことを考えないようにしたままで若さを保とうとするのでは、大切なことを忘れてしまう恐れがあります。

 その一つは、人生が、命が、長い短いにかかわらず一人一人尊い、ひとときひとときは同じように大切だということです。人生を長さや健康で計ることは、命を品物と同じように見てしまう可能性があります。浄土真宗は、不老長寿を目指すものではありません。生死を超えるのです。

如来の喚び声は親の叫び

 中国の善導大師を讃(たた)えるご和讃の中に、「五濁(ごじょく)悪世のわれらこそ 金剛(こんごう)の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然(じねん)の浄土にいたるなれ」(註釈版聖典 591ページ)、生も死も捨てることがお浄土に生まれることだと親鸞聖人は詠(うた)われました。金剛、すなわちダイヤモンドのような信心一つで、生死を捨てて、お浄土に至るのです。

 また、善導大師は、阿弥陀如来のお喚(よ)び声を、「なんぢ一心に正念(しょうねん)にしてただちに来(きた)れ、われよくなんぢを護(まも)らん」(同224ページ)と表現されました。おぼつかない足取りで、危険な場所を歩いている我が子を見た時の、親の叫びのように感じられます。

 阿弥陀如来の真(まこと)のおこころをいただいて、精いっぱい歩ませていただきたいと思います。

本願寺新報2008(平成20)年12月20日号掲載
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