前門様のお言葉

御正忌報恩講 ご門主法話(ご親教)

法話2008/01/15

報恩講の意義 再認識を
わが人生を顧みる機会として

宗門については"昔はよかった"

 今年も皆さまとご一緒に、御正忌報恩講をおつとめいたしまして、本日、大逮夜を迎えることができました。

 早いもので、私が継職いたしましてから三十一回目の御正忌になります。年齢を重ねますと「昔はよかった」という言葉がつい出ますけれども、一般的に言って、子ども時代の見聞は狭い範囲のことですし、マスコミの報道の仕方も昔と今とは違います。公平に比べることは簡単ではありません。

 ところが、宗門のことに限って申しますと、胸の痛むことではありますが、昔の方がよかったと言える事柄がたくさんあります。昔のことを聞いていらっしゃらない方は、よく知っている方にお尋ねになったり、昔のことを具体的に描いた文学や美術作品、写真や歴史の書物などをご覧になってください。

 しかし、今を嘆いているだけではどうにもなりません。今、実行しなければならないこと、実現できることは何かをはっきりさせて、取り組むことが大事です。報恩講の意義の再確認は、その一つではないでしょうか。

身近でない「報恩」の語

 私たちが報恩講をおつとめいたしますのは、宗祖親鸞聖人が、私の、そして私たちのいのちの根本問題を解決する道、無量寿経(註釈版聖典14ページ)にあります、生死勤苦(しょうじごんく)の本(もと)を抜く道を顕(あきら)かにしてくださったからです。

 親鸞聖人が恩徳讃に「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主(ししゅ)知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」(同610ページ)とおっしゃっていますのは、阿弥陀如来さまとお師匠さまである法然房源空聖人を讃えていらっしゃることでありますが、私たちにとりましては、親鸞聖人が師主知識の一番目であります。

 「報恩」「ご恩報謝」という言葉が、既に現代人には身近ではないかもしれませんが、感謝の気持ちまでなくなったとは思えません。報いる、報謝するということがわかりにくいのかもしれません。さらに追求しますと、ご恩報謝せずにはおれないようなお救いがはっきりしないということもありそうです。

「癒し」では解決しない

 現代人には毎日の暮らしで、悩みや不安、不満はたくさんありますが、「生死勤苦の本」、すなわち物や人間によって支えられたり、慰められたりして解決する課題のさらに奥にある根本課題が、曖昧になっているようです。

 近年、「癒す」とか「癒し」という言葉を耳にいたします。仏教にも疲れた心を癒すはたらきがないわけではありませんが、事の本体を確かめることなく、表面だけを癒すとか、自分だけ納得するということでは、仏教的なめざめや救いとはなりません。生死の迷いとは、日常生活の課題ではなくて、その基盤が揺らぐこと、現実の対処方法だけでは本当の解決にならない事柄です。

 例を挙げますと、健康な人も、そうではない人も、等しくこの世を去らねばならないということがあります。健康法や健康食品では解決しない事柄です。そこを解決すると、私が生きていることの意義が納得され、人間同士、さらに動物、植物に通じるいのちへの共感が広がっていきます。

罪障と功徳は氷と水の如く

 阿弥陀如来の救いのはたらきが南無阿弥陀仏となって、私を喚(よ)び、支えてくださることを聞くことは、誰も逃れられない死を抱えている私、他のいのちを犠牲にしたり、踏み台にして生きている私を心配し、見捨ててはおけないという阿弥陀如来さまのお慈悲に遇(あ)うことです。

 阿弥陀如来の救いに遇うことと、私が救われ難い煩悩に満ちた人間であることを知らされることを、切り離すことはできません。他力の信心とは、自分がこちら側にいて、阿弥陀さまを向こう側に置き、お救いを期待することではありません。阿弥陀如来の救いが南無阿弥陀仏となって、私の心に、口に、はたらいていてくださるのですから。

 「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」(同585ページ)と親鸞聖人はご和讃に記されました。

 仏法を聴くこと、聴聞することを通じて、仕事の上の、あるいは私生活で生まれる喜びや悲しみは、この世を超えた広い世界に気付く大切なご縁であった、有り難いご縁であったと知らされます。

受け継ぎたい家庭の報恩講

 浄土真宗の伝統には、お寺での報恩講法要だけでなく、ご門徒の家庭での報恩講や在家法座があります。今日、お正月のおせち料理などの習慣も受け継がれにくくなっていると聞きますから、ご家庭での報恩講や法座は、一層難しくなっているかと思いますが、今、言葉通り、報恩の気持ちがわかなくても、各自、わが人生を顧みる機会として、先人が伝えてくださった仏法から何かのヒントを得る機会としてでも、ぜひ受け継いでいただきたいものです。

 さまざまのご縁に育てられて、私が「他力本願のことわりをねんごろにききひらき、専修一向(せんじゅいっこう)の念仏の行者に」(同・1223ページ)なることこそ、報恩講の要であると聞かせていただくことであります。

本願寺新報2008(平成20)年2月1日号掲載
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