前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2007/11/23

他力の救いの中で生き抜く
お浄土は、迷いの世界へのはたらきかけの源

死んだらおしまい?

 昨日、そして本日と、全国門徒総追悼法要を有縁の皆さまとご一緒におつとめいたしました。ただ今は、阿弥陀経を拝読し、南無阿弥陀仏とお念仏申して、阿弥陀如来のお慈悲の中に、亡くなられた門信徒の方々を思い、わが身を省みるご縁とさせていただきました。

 この一年を顧みますと、多くの方とお別れいたしました。皆さまもさまざまの思いがおありのことでしょう。身近な方を亡くされた方は、本願寺第三代覚如上人のお言葉、「人間の八苦のなかに、さきにいふところの愛別離苦(あいべつりく)(愛する者と別れる苦しみ)、これもつとも切なり。(中略)うれへなげくばかりにて、うれへなげかぬ浄土をねがはずんば、未来もまたかかる悲歎(ひたん)にあふべし」(註釈版聖典907ページ)というお言葉にうなずかれることと思います。

 蓮如上人は「それ、つらつら人間のあだなる体(てい)(はかないこと)を案ずるに、生(しょう)あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰(おとろ)ふるならひなり」(同・1140ページ)とおっしゃいました。

 「ならひ」とは、辞書に「世の常、きまり」とありました。仏教徒であろうとなかろうと、誰でも知っていることです。しかし、それをどのように受け止め、乗り越えるかは、仏教の大事な主題です。

 死んだらおしまいという解決の仕方、反対に、死後にもこの世と同じ理屈が成り立ち、同じ楽しみや苦しみを受け取るという考え方では、仏教の説くさとりとは方向が違います。

人生の先生とは

 仏教は、このような考え方を迷いと見て、迷いを転じてさとりを開くこと、限りない智慧と慈悲の活動の世界に連なることを目指しています。

 親鸞聖人は、私たちのためにこのことを、阿弥陀如来のご本願によって往生成仏するという浄土真宗として明らかにしてくださいました。

 この往生成仏は、阿弥陀如来のご本願のはたらきである南無阿弥陀仏が、信心となり、私を支え、さとりの世界へ導いてくださることの結果です。今、ここで、ご慈悲を喜ぶことがないならば、往生浄土の意味は、ただ、つらいこの世から逃げ込む避難場所になったり、この世の楽しみをそのまま持ち込む天国になったりします。

 お浄土は、煩悩のない阿弥陀如来さまのさとりの国であり、迷いの世界へはたらきかけてくださる源です。

 「真実信心うるゆゑに すなはち定聚(じょうじゅ)にいりぬれば 補処(ふしょ)の弥勒(みろく)におなじくて 無上覚(むじょうかく)をさとるなり」(同605ページ)と親鸞聖人は詠われました。

 定聚、すなわち正定聚(しょうじょうじゅ)とは、今、ここで、往生成仏が定まること、迷いの人生を阿弥陀如来の救いの中に生き抜くことです。

 信心、すなわち、阿弥陀如来のお慈悲に気付くことと、煩悩に満ちた私が最後の依りどころにはならないことに気付くこととは、別のことではありません。日常生活のことは、自分の力や、周囲の支えで何とかなることが多いのは確かですし、何とかしなければなりませんが、それだけで、老・病・死は解決しません。阿弥陀如来のお慈悲の中にあると気付く時、必ずお浄土でさとりを開かせていただくわがいのちである、さまざまの縁に支えられたわがいのちであったと知らされます。

 私たちに先立って往(ゆ)かれた方々は、人生を教えてくださる先生でありましょう。私たちに仏縁を与えてくださった方は、善知識(ぜんちしき)と味わえます。

 近年、亡くなった方が、風になって世界を駆けめぐっているとか、星になって光っているとか歌うことが流行しています。残された者の悲しみを癒(い)やす素朴な表現として、意味のあることは確かですし、仏教の空思想(くうしそう)や還相回向(げんそうえこう)を連想する方もあるようです。

 しかし、自力の修行も他力の救いも関係なく、故人を自然現象に置き換えるだけであっては、物足りない気がいたします。迷いを転じてさとりを開くという仏教の教えに照らして、もう一歩深く味わいたいと思います。

 共にお念仏申して、往生浄土の道を歩みつつ、一人一人が大切にされ、平和で心の通う世の中を目指してまいりましょう。

本願寺新報2007(平成19)年12月20日号掲載
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