前門様のお言葉

春の法要(立教開宗記念法要) ご門主法話(ご親教

法話2007/04/15

私の「一大事」とは何か?
この世の人生の完成するところが「後生」

主著書かれた年を立教開宗

 13日より本日まで、皆さまとご一緒に立教開宗記念法要をおつとめいたしました。

 立教開宗とは、親鸞聖人が独自の教え、浄土真宗を開かれたことを申します。聖人の教義についての主要なご著述である『教行信証』、詳しくは『顕浄土真実教行証文類』をお書きになったことをもって、立教開宗としています。

 親鸞聖人ご自身は、師匠である法然房源空聖人にひたすら従い、そのおこころをそっくり受け継いでいるとお考えです。また、『歎異抄』には、有名な信心一異(いちい)論争が記されていまして、「法然聖人の仰せには、『源空(法然聖人)が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房(親鸞聖人)の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり』」(註釈版聖典852ページ)とあります。

 まさに、同じ他力回向(えこう)の信心に生きていらっしゃったことがわかります。親鸞聖人の独自性とは、教えについて、阿弥陀如来の救いを徹底して窮(きわ)められ、深く受け止められたことであり、それは他力の純粋化ともいえます。それだけに、誤解されやすい面もありますし、世間の慣習や習俗と両立しがたいところもあります。

承元の法難から今年で800年

 今年は、法然聖人とその門弟である親鸞聖人がたが罪に処せられました、承元(じょうげん)の法難からちょうど800年になります。

 近年の研究によりますと、罪にされた方々は、必ずしも幹部のような地位にいらっしゃったわけではなく、むしろ、教えの受け取り方が、称名念仏の数を重視するのではなく、信心を重視する方々であったようです。

 それは、決して支配者に逆らうということではありませんが、当時の支配的な仏教教団から見ると、菩提心や戒律、修行を無視して悪人の救いを説き、世の中の秩序を乱すと見なされたようです。結局、専修(せんじゅ)念仏そのものが禁止されてしまいました。

 立教開宗の書である『教行信証』は、これらの批判に答えるという意味もあるようです。悪人が救われるという教えは、当時はもちろんのこと、今日でも誤解されることがしばしばでありますから。

自分の欲望の先には次の欲望が

 さて、今日の私たちにとって、浄土真宗はどのような意味があるでしょうか。蓮如上人は、「後生(ごしょう)の一大事」とおっしゃいましたが、今日、この言葉だけではなかなかわかりにくくなっています。

 まず、「一大事」が何かを考えることは、理解しやすいのではないでしょうか。健康、お金、仕事、家族など、二番目、三番目に大事なことはたくさんありますが、一番目はやはり、自分のいのちにかかわることでありましょう。

 病気になり、真剣に考えずにはおれない方々だけでなく、平凡な暮らしをしていても、「このままいのちが終わってしまって良いだろうか、何かむなしい」と考えると、落ち着かなくなります。

 後生を、単純な来世とだけ考えるのではなくて、この世の人生の完成するところ、目的地と考えると、やはり一大事ではないでしょうか。そこから、生活の上の大切な事柄を省みることができます。多くの人や物に支えられた私であること、反対に私の欲望や無知で他の人々を傷つけたり、他の人々の欲望によって傷つけられたりする私である。これらすべてを背負って、人生の終わりへと向かっている私です。

 阿弥陀如来の智慧と慈悲は、このような私を本当の完成であるさとりの世界、お浄土へと連れて行こうと、はたらいていてくださります。自分の欲望を頼りにさまよう先には、さらに次の欲望があり、満たされることはなかなかありません。

 この世が思うようにならないから助けてくださいとお願いするための阿弥陀如来ではなくて、良いことも良くないこともすべて身にそなえた私の全体が、阿弥陀如来の救いの目当てです。

お念仏申し心を豊かに

 悪人が救われるとは、すべての人が救われることであり、私が救われることです。一つ二つ良いことをしたからといって善人になれるほど、欲望の渦巻く人間世界は単純ではありません。

 「他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因(しょういん)なり」(同834ページ)とありますように、私がご本願を信じ、念仏申して、往生浄土への人生を歩むのです。

 『正像未和讚』には「無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな」、本願は智慧のない長い夜のともしびである。智慧の眼(まなこ)が暗いと悲しむことはない。「生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ」(同 606ページ)、生まれ変わり死に変わる大きな海の上に浮かぶ船、筏(いかだ)である。罪が重いとなげくことはない、と親鸞聖人は詠(うた)われました。

 これは、この世から逃げ出してお浄土へ行くのではありません。今、ここに、ご本願の船、筏に乗せていただき、日々、「ともに いのち かがやく 世界へ」と努めながら、お念仏申して心豊かに過ごさせていただきましょう。

本願寺新報2007(平成19)年5月1日号掲載
(WEBサイト用に体裁、ふりがな等を調整しております)