前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2006/11/23

死をどう受け止めるか?
仏さまの願い すべてのいのちに

一回限りの大切ないのち

 昨日、そして本日と、全国門徒総追悼法要をおつとめいたしました。経典を拝読し、この一年にお浄土に往生されたご門徒の方々を偲び、わが身の往生浄土についても味わわせていただくご法要です。

 日本人の平均寿命が延びたとか、他国と比べて何番目とマスコミは報じますけれども、それは数字の上のことで、一人一人のいのちは比べるものではなく、長くても短くても一回限りの大切ないのちです。

 しかもそれは、恵まれたいのちであり、自ら責任を持って生きるいのちであり、同時に私物、私のものとして勝手にできるものでもありません。さらに、長生きできたとしても、さまざまの悩みがありますし、長生きをしたいと願っても、かなえられるという保証もありません。

 仏法、お念仏の縁が深かった方があり、あるいはそうとは言い難い方もいらっしゃることでありましょう。阿弥陀如来の願いは、すべてのいのちにかけられています。精一杯生きられた先人の方々を思い、お念仏申しつつ、お徳を偲びたいと思います。

浄土に通じるいのち

 死をどのように受け止めるかということは、宗教や文化の違いによってさまざまあります。死は神さまによる罰であると考える人々があり、あるいは穢(けが)れであると考える人々、天国や星に生まれると表現する人々もあります。あるいは来世を信じられなくなって、永遠のいのちとか子孫へのいのちの流れに託す人々、あるいはこの世に生きた証である事業、作品、名声などを残すために力を入れるということもありましょう。現代日本では、健康法に力を入れて老化を防ぎ、死を否定しようとしているという面もあるかも知れません。

 仏教の基本は、生と死を共に超えて仏に成ることを目指すのですから、単純に来世を願うことでもなく、またこの世だけということでもありません。浄土真宗では、それを誰にでも受け容れやすいようにと、往生成仏、お浄土でのさとりとして用意されています。ですから、この世の縁が尽きた時にお浄土に生まれるとは、生死(しょうじ)を超えたさとりを開くということです。

 親鸞聖人の高僧和讚には「五濁悪世(ごじょくあくせ)のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然(じねん)の浄土にいたるなれ」(註釈版聖典591ページ)とあります。

安心してこの身このままで

 この世に生きている私たちから見ると、お浄土はかなたの仏国土、阿弥陀如来の国ですが、この世の霊魂がそのまま往くと考えるのではなくて、「無為涅槃界(むいねはんがい)」と説かれますように、凡夫である私が仏になるところです。私が生まれるのは、すべて阿弥陀如来のはたらき、本願力による信心一つですから、ご本願を信じ念仏申す身になるとは、この土(ど)にありながら、お浄土に通じるいのちへと転換されることになります。

 お浄土は、この私が生まれるべきさとりの世界であると共に、すでにこの世を去られた方々の世界でもあります。往生成仏された先人の方々を縁として、お浄土を思います時、まだ見たことはないけれども、故郷のような感情が生まれます。

 年若くして別れた家族や知人、年老いて送った親族、さまざまの思い出につながる世界です。それは、錦を着て帰る必要のない、お土産を携えて帰る必要もない、安心して、この身このままで往くところであります。「なんぢ一心に正念(しょうねん)にしてただちに来(きた)れ、われよくなんぢを護らん」(同 224ページ)と善導大師は教えてくださいました。

 このたびのご法要に併せまして、布教大会が開かれ、四人のご講師がご法話をされます。また、全国から参加された合唱団の方々による仏教讃歌の演奏会が開かれます。白洲の献菊展など、さまざまの形で阿弥陀如来のお徳を讃えることは、まことに素晴らしいことであります。
お念仏申して、共に、往生浄土の道を歩ませていただきましょう。

本願寺新報2006(平成18)年12月20日号掲載
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