前門様のお言葉

春の法要(立教開宗記念法要) ご門主法話(ご親教)

法話2006/04/15

私を見捨てておけない
念仏申すとは、阿弥陀如来の慈悲のこころを受けとること

独自の流れを開く親鸞聖人

 今日は、みなさまとご一緒に立教開宗記念法要をおつとめいたしました。立教開宗とは、親鸞聖人が浄土真宗という教えを立て、独自の流れを開かれたことをいいます。私たちが宗祖と仰ぐゆえんであります。

 親鸞聖人にお尋ねすれば、「浄土真宗を開かれたのは、お師匠さまの法然聖人である」とおっしゃるはずですが、法然聖人のお弟子の中には、さまざまの考えの方がいらっしゃいました。法然聖人の包容力でまとめられていたようですが、法然聖人滅後、同じ道を歩むのは少し無理があったようです。

 その中で親鸞聖人は、ご自分の受け止められたところを『教行信証』、詳しく申しますと『顕浄土真実教行証文類』という著述におまとめになりました。法然聖人の教えを一層深め、ご本願のはたらきを明確にされたという意味で、立教開宗の根拠といたしますが、漢文で書かれた難しい書物で簡単には読めません。現代語訳が出版されていますので、一部分でもご覧になってください。

 なお、一昨日、昨日と、本願寺第七代存如上人の五百五十回忌法要がつとまりました。存如上人は、有名な蓮如上人のお父上で、蓮如上人が活躍される基礎を築かれたという点でも大事な方です。本願寺新報四月十日号をご覧ください。翻って、私たちは次の時代のために、種をまき、苗を育てているだろうかと反省させられます。

教えには2つの立場が

 さて、教えについて二つの面から考えることができます。

 一つは、立教開宗の書物『教行信証』のように、経典を根拠にして、理論をもって救いを説明し、同時に他の宗教や宗派との違いを明らかにすることです。譬(たと)えて言えば、地図のように道を間違えないで目的地に着くための基本です。全体を見わたし、最もよい方法を知ることができます。

 もう一つは、私たちの人生に即して受け取る受け取り方です。譬えを用いますと「交差点を右に曲がり橋を渡って左へ行く」という実際に歩く方法です。例を挙げますと、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずる」(註釈版聖典832ページ)という『歎異抄』のお言葉です。

 宗門としては、理論をおろそかにできませんが、要点以外の難しい理論を誰もが学ぶ必要があるとはいえません。誰にでも必要なことは受け取る姿、伝統的な言葉では「領解(りょうげ)」です。その代表として「もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来・・・」という『領解文』(同・1227ページ)が大事にされてきました。残念ながら現代人には表現が通じにくくなっているところがあります。

〝はたらき〟が生活の中に

 親鸞聖人の教えの要点の一つは、本願力の回向(えこう)ということです。回向とは、回(まわ)し向けるという漢字の意味ですが、大事なのは誰がどちらに向けるかです。

 普通には、仏教とは自ら教えを学び、戒律を守り、修行を重ねて悟りを目指すと考えられています。私が目標に向かって努力していくことです。ところが現代日本の課題としては、本当の意味で悟りを目指す仏教徒がどのくらいあるかということではないでしょうか。ご参拝のみなさまはいかがでしょうか。できる、できないの前に、したいと思うか、しようと思うかということが問題であります。

 私の煩悩、つまり欲望は悟りを目指すことではなくて、この世の暮らしの方に向いています。しかも現代の競争社会は、その欲望を一層あおり立てています。さまざまの悩みや苦しみがありますけれども、だからといって普通の生活を捨てて、修行に励もうと思う人が多いとは思えません。

 本願力の回向、つまり救いのはたらきが阿弥陀如来さまの方から私に向けられ、日常生活のただ中に届けられているのはそのためです。こちらから探し求めて行くまでもなく、既に阿弥陀如来さまの方から来てくださっています。それが南無阿弥陀仏です。

良いことは分かち合う

 迷いの人生生活を送っている私は、簡単なことで悟りを目指すような人間にはなりません。阿弥陀如来さまはそのような私を見捨てておけないと願い、喚(よ)び続けていらっしゃいます。

 「弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ」(同609ページ)と親鸞聖人は詠われました。

 心や願いは言葉や態度によって伝わります。阿弥陀如来のお慈悲のおこころは、南無阿弥陀仏というお言葉となって伝えられています。南無阿弥陀仏という言葉とともにおこころが受け取られた時、本願を信じ念仏申す私にならせていただくのです。

 その時、私を取り巻くさまざまな人や物事は、私が阿弥陀如来のおこころを味わう縁となります。阿弥陀さまに支えられ、受け入れられて生きる人生には、美しい縁もありますが、社会の醜い姿、戦争や事件もあります。

 良いことにあえばともに分かち合い、良くないことがあればしっかりと受け止めて、今改められることは何かを見極め、「ともにいのちかがやく世界へ」向かいたいと思います。

本願寺新報2006(平成18)年12月20日号掲載
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