前門様のお言葉

御正忌報恩講  ご門主法話(ご親教)

法話2006/01/16

人生を転換する出遇い 自分の人生はどこに向かっているか?

29歳で源空聖人と

 今年も、皆さまとご一緒に御正忌報恩講のご法要をおつとめいたしまして、今日、大逮夜を迎えました。

 宗祖親鸞聖人のご生涯をうかがいますと、さまざまの出来事がすべてお念仏を喜ばれるご縁であったと思われますが、人生の転換という点では、お師匠さまである法然房源空聖人との出遇(あ)いが極めて重要であることは申すまでもありません。ご本典、『教行信証』に「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」(註釈版聖典472ページ)と記(しる)していらっしゃる建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦とは、西暦に直しますと1201年、宗祖聖人が数え年29歳の時でありました。

 教義の上からは、自力の修行を棄てて本願他力に帰依されたということになりますが、今私が想像いたしますのは、源空聖人に遇われて、ものの考え方、人生の基盤が逆転するような体験をされたのではないだろうかということです。

 歩くのはつらいから車に乗ろうというような自分に都合の良い方を選ぶという譬(たと)えでは表すことのできない重大な方向転換ではないでしょうか。

 そこで解決されたのは「生死(しょうじ)を出る」という課題でした。生死とは「生まれ死ぬ」という文字ですけれども、仏教の言葉としては、生死の苦海と言われますように、迷いの人生という意味です。現代人にとっては少しわかりにくいところかもしれませんが、私の人生が十分に納得のいくものかどうか、人生がどこに向かっているのかという点から考えてみることもできそうです。今つらいことがある者もない者も、阿弥陀如来さまから見れば迷いの人生を送っている者であります。何とかしなければならないと心配してくださっています。

回向によってこそ

 自力他力という対比は、わかりやすいようでかえって誤解しやすい面もあるかもしれません。むしろ方向転換、こちらから探し求めて確かな自分、本当の自分を築く方向が逆転されて、阿弥陀如来さまの方から願っていてくださった、喚(よ)んでいてくださった私であると気付くことです。それを回向(えこう)と受け止められました。ご和讃には「弥陀の回向成就して 往相(おうそう)・還相(げんそう)ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ」(同584ページ)とあります。阿弥陀如来は他力回向を完成して、お浄土へ参らせてくださる往相回向と、お浄土からこの土に還らせてくださる還相回向の二つとされました。これらの回向によってこそ、信心と念仏を共に得させていただけるのであると詠っていらっしゃいます。

 信心とは阿弥陀さまの智慧と慈悲のおこころである南無阿弥陀仏が私に回向されていること、私の中ではたらいていてくださっていることです。そこに往生成仏が定まります。それは、いのちの根本問題が解決されること、人生の基盤と方向が与えられることとも言えるでありましょう。南無阿弥陀仏がいつでもどこでも、私の人生、生活にはたらいているからこそ、日々の暮らしをお念仏申して過ごすのです。生活を離れたお念仏ではなく、良いことも良くないことも、うれしいこともつらいことも、お念仏とともに受け止め、歩むのです。それが往生浄土の道であります。

ご縁薄い学生に

 浄土真宗が開かれ、既に宗門が出来上がった時代に生きています私たちは、親鸞聖人と同じ体験をすることはできませんけれども、自分の人生において一番大切なことは何かを考えたとき、煩悩にまみれた我が身このままで良いとは言えません。そこから、阿弥陀如来さまのおこころを聴くということの重要性がわかってくるのではないでしょうか。

 昨年の春、私は京都市内のある宗教色のない大学の依頼で、学生に宗教や仏教について、一時間講義をいたしました。その時、聴講者からの質問を紙に書いていただきましたのが約百枚ありました。後で改めて読んでみますと、宗教一般について学生がかなり厳しい目で見ていることがわかりました。「戦争や紛争の原因ではないのか」、「なぜ犯罪につながるような事件を起こすのか」といったものや「いったい教団、宗門は社会にどんな貢献をしているのか」といったものが私の印象に残っています。もちろん、素直に教えを学ぼうとする学生や、お寺、宗門への期待を述べたものもありました。

 私が感じましたことの一つは、宗教と紛争については、ただ教義を考えるだけではなくて、歴史や現実を真剣に省みなければならないということであります。もう一つは、多くの学生がマスコミの情報を知るだけで、良いご縁にはあまり遇っていないらしいということです。お念仏の声、お寺や門信徒の方々の活動、仏教の書物など、ぜひ良いご縁に遇っていただきたいと期待いたします。

 阿弥陀さまのおはたらきは、さまざまの場面で遇うことができます。ご縁とは恵まれるものです。私たちも良いご縁になりそうなことを一つでも増やしたいと思います。

 「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(同609ページ)というご和讃を味わいつつ、今日から一日一日を過ごしていきたいと願っております。

本願寺新報2006(平成18)年2月1日号掲載
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