前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2005/11/23

いのち 私のものでない
老病死 課題に出家された釈尊

慰めが反対の言葉に...

 昨日、そして本日と、全国門徒総追悼法要をおつとめいたしました。この一年にお浄土に往生されたご門徒の方々を偲び、経典を拝読しお念仏申しますことは、大切な、また有り難いご縁でございます。

 まず思い浮かびますのは、家族、親族、親しかった友人、知人のことでありましょう。長寿を全うされた場合でも、ご本人はもちろん、親しい者にとっても、もう少し長生きしていただきたかったと思いますが、若くしてあるいは幼くしてこの世を去られた場合、さらには事件や事故の場合、納得がゆかない、受け入れがたいことであります。無理に納得しようとするのではなく、悲しみを抱いたままお念仏申すことしかありません。仏法を聞きお念仏申す中に、阿弥陀如来さまのお慈悲が感じられ、現実を受け止め、生きる道が開かれてきます。

 近年、私が教えられましたことは、第三者が善意で慰めたつもりで、かえって反対の結果を引き起こす場合があるということです。例えば子どもを亡くした方に「もう一人残っているから我慢しなさい」、あるいは高齢で亡くなられた方のご遺族に「十分長生きされたからそれで十分でしょう」というような、ほかのものでもって置き換える、すげ替えるということは、悲しみを受け入れたことにはならず、かえって傷付けることにもなるのです。

 考えてみますと、経験のないものの同情や慰めはまことに危ういものです。思いつきの言葉をかけるのではなく、ただ悲しみに寄り添うことに努めることではないでしょうか。広いおこころで受け入れてくださるのは、阿弥陀如来さまです。

「見捨てない」こころ

 さて、この世の仏教の始まりでありますお釈迦さまの出家の動機は、生活の上の悩みや苦しみではなく、老病死といういのちそのものの課題でした。欲望を押し広げようとするとき、老病死はいのちを妨げることとして厭(いと)うべきものになりますが、祖先、両親から受け継がれたいのち、さまざまの縁に依って支えられたいのち、与えられたいのちであり、個人の私物、私のものではないと気付くとき、老病死は受け入れるべきこととなります。確かに、この道理は言葉としては理解できても、我が身のこととして簡単には納得できないのが私の正直な姿です。そうであるからこそ建てられたのが、阿弥陀如来のご本願です。

 親鸞聖人のご和讃に「如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就せり」(註釈版聖典606ページ)、阿弥陀如来の誓願をおこされたいわれを尋ねますと、迷いに苦悩する人間を見捨てないで、功徳(くどく)を私たちに振り向けることを第一として、大悲のおこころを完成してくださったのですとあります。

 私が怠け者だから、自分の力でいのちの問題が解決できないのではありません。人間がもともと持っている生きる意欲と両立しない現実があるからです。現実を見ないようにして取り繕うよりも、現実を受け入れがたいものとして認める方が、より豊かな生き方になるのではないでしょうか。

物事が違って見えてくる

 さらにご和讃には、「五濁悪世(ごじょくあくせ)の有情の選択(せんじゃく)本願信ずれば 不可称(ふかしょう)不可説不可思議(しぎ)の 功徳は行者の身にみてり」(同605ページ)、五つの濁りある末法の時代の人間が、阿弥陀さまのご本願を信じる身になると、言い表せない、思いも及ばないお徳が念仏申す人の身に満ちあふれるのですと詠(うた)われました。ご本願を信じるとは、念仏申す身になることです。

 阿弥陀如来の智慧と慈悲のはたらきが南無阿弥陀仏となって我が身に届き、あふれ出てくださるのです。その一つの姿は、私にこの世の物事が今までと違って見えてくるということでしょう。私の姿、他の人びとの姿、それぞれ大切なものです。ひとときひとときが二度とない大切な時です。限りあるいのちを精いっぱい送らせていただきましょう。

 このたびのご法要に併せまして布教大会が開かれ、また御堂演奏会が行われています。白洲では京都菊栄会の方々による献菊展で、丹誠込めて育てられた美しい花を見せてくださいました。

 お念仏申しつつ、各自それぞれの人生でもって阿弥陀如来さまを讃(たた)えたいと思います。

本願寺新報2005(平成17)年12月20日号掲載
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