前門様のお言葉

御正忌報恩講 ご門主法話(ご親教)

法話2005/01/16

聖人のみ教えに救われる人生
身をもって明らかにしてゆく

 皆さま、ようこそご参拝になりました。この総御堂で御正忌報恩講をおつとめするようになりまして、今年は六度目になります。御影堂の工事は順調に進み、今年の秋には、いよいよ素屋根の解体が始まる予定です。修復工事の完成ののち、宗祖親鸞聖人の大遠忌を迎えます。そのお待ち受けという意味を込めまして、去る(一月)九日、「消息」を発布いたしました。宗門の皆さまには、まず、「消息」のほうをお読みいただきたく思いますので、ここでは、少し補うような、あるいは強調するようなことを申すことにいたします。

 昨年のことを振り返りますと、天災地変をはじめ、よくないことが先に浮かびます。日本国内では、心配なことが山積しています。世界に関心をひろげても、明るい話題は少ないように感じます。マスコミの報道の仕方や私が事件を知る方法、あるいは記憶が偏っているということもありましょう。しかし、悲しい出来事を人ごととして、自分だけの楽しみや喜びに浸っていたのでは、心の貧しい生き方となります。辛いことを受け止め、共にする心を養い、乗り越えるところに喜びを見いだし、自分の喜びを他の人びとへとひろげてゆくところに本当の人生があるのではないでしょうか。

 今の御影堂が建ち、また龍谷大学の起源であります学寮が創設されましたのは、江戸時代の初め、寛永年間です。その頃の日本の人口は、今の四分の一くらいではなかったでしょうか。今、人口は一億二千万を超えていますが、親鸞聖人について、悪人正機という言葉とともに歴史の教科書で見た覚えがあるという人は多くあっても、み教えの基本を聴聞してお念仏申し、さらに宗門の活動に参加して下さる方はどのくらいいらっしゃることでしょうか。

 今大切なことは、現代の人びとがなぜ仏法に遇(あ)わねばならないのか、親鸞聖人のみ教えによって救われるとどのような人生、生き方が育てられるのかを、身をもって明らかにしてゆくことだと思います。私たちは親鸞聖人がご苦労くださったと申します。さまざまのことが挙げられますが、その中の一つは、仏法をすべての人に開いてくださったことであります。それは、聖人のご流罪とも深く関係しています。

 世界には正しいことをしたら救われるという宗教がたくさんありますが、それは正しくないものを滅ぼしてもよいという考えにつながりかねません。すべてのものが救われる教えだから、私が救われるのです。

 仏法に照らして、明らかになる人間の姿、私の姿は、迷いの存在であるということです。これは、一面では釈尊、お釈迦さまの時代も今も変わらない人間の現実です。しかしながら、他方、科学技術の進歩や経済の発展によって、今日では、嫌なことを先に延ばしたり、遠くへ追いやったりできることもあります。如来さまの智慧に照らされ、お慈悲に支えられて、我欲に振り回されている私の姿、戦乱混迷の世の中をしっかり受け止める必要があります。

 次に、み教えに生かされるとはどのようなことでしょうか。浄土真宗は往生成仏の教えであると申しますと、この世の人生生活には、関係が薄いように聞こえるかもしれません。阿弥陀如来さまのはたらきである南無阿弥陀仏は、今ここに届いています。迷いの世界、欲望に振り回される人生でありながら、迷いを超えた依りどころが与えられるということです。

 親鸞聖人はご本典に「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」(註釈版聖典189ページ)、意訳しまして、本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂(おさ)め取る光明の大海に浮かぶと、この上ない功徳の風が静かに吹き、すべてのわざわいの波は転じて治まると記していらっしゃいます。ご本願を信じる身になることを、船や筏(いかだ)に乗せていただくと譬(たと)えられました。信心とは、「本願他力をたのみて自力をはなれたる」(同699ページ)ということです。同時に二つの乗り物に乗ることはできません。

 ご本願の船に乗せていただいて開かれてくるのは、いのちのあるもの支え合って生きることの大切さと喜びです。心にゆとりがないと、助け合う喜びを忘れて、弱いものをいじめることに喜びを感じるようになりかねません。

 お念仏申して、阿弥陀さまのお慈悲を味わいつつ、ともに歩ませていただきましょう。

本願寺新報2005(平成17)年2月1日号掲載
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