前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2004/11/23

私のいのちはどこへ・・・
人生の一番大事な事柄

 昨日、そして本日と、全国門徒総追悼法要をおつとめいたしました。

 この一年にお浄土に往生されたご門徒の方々を偲び、お念仏申し、仏法を聴聞いたしますこと、有り難い、また大切なご縁であります。

 今年は、天災地変による被害が際だちました。不慮の死を遂げられた方々がいらっしゃいます。長寿を全うされた場合でも、ご本人はもちろんのこと、身近な方々にとって残念なことでありますが、いわんや病や事故、あるいは事件で亡くなられた方々は、なお一層であります。

 親鸞聖人は「生死(しょうじ)無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ」(註釈版聖典771 ページ)とお手紙におっしゃっていますけれども、理屈ではわかっても、現実を受け入れることは易しいことではありません。そうであるからこそ、仏法を聞かせていただき、ご本願を聞かせていただくことが大切なのであります。

 今の日本に広がっている考え方の一つは、健康第一ということではないでしょうか。確かに、恵まれたいのちを精一杯生きる上で、各自に応じた健康に気をつけるということは、申すまでもありません。

 しかしその健康が、人生の目的のようになってしまったり、生き甲斐のようになってしまいますと、体の弱い人を軽く見たり、自分自身の本当に大事な事柄が、おろそかになってしまう恐れがあります。蓮如上人は「一大事」という言葉をたびたびお使いになりました。「後生(ごしょう)の一大事」、「一大事の仏法のこと」(同・1304ページ)というお言葉が残されています。

 この私の人生は、どこへ向かっているのか。迷いから迷いへと巡っていくのか、あるいは迷いからさとりへと向かっていくのかということこそ、一番大事な事柄、一大事であります。自分の立場が曖昧(あいまい)ですと、他の人々も危うく思われます。祖先が自分の大事な子孫に祟(たた)りをもたらすという考え方などは、迷いの最たるものではないでしょうか。お葬式の日時によって、生き残った人が引いて行かれたり行かれなかったりするというのも、よく耳にすることです。他人を迷いの世界の道連れにするのではなくて、おさとりの世界であるお浄土への道をともに連れだって歩む、そういう意味からこの世を大切にして生きていきたいものであります。

 私たちは、この世に生活している限り、さまざまの出来事にぶつかります。それらを少しでもよく解決しようとして、倫理、道徳を育て、社会の仕組みを改め、また科学技術を発展させてきました。それらはもちろん良い面がありますとともに、また一面、世界的な貧富の差を引き起こすなど、弊害も伴っています。しかも、それだけで解決しないのが人生そのものではないでしょうか。

 「答の出ない問いを仏法に聞く」という言葉が、あるカレンダーの法語に出ていました。迷いを深める私の全体をしっかりと受けとめてくださる阿弥陀如来さま、さとりへと導いてくださる阿弥陀如来さまのお慈悲の中に生きるとき、私が我が身を受け入れるようになります。そして、我が身を受け入れることができるようになると、他のいのちをも受け入れることができるようになります。

 「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚をばさとるなり」(同600ページ)と親鸞聖人のご和讃にあります。

 お念仏申して、阿弥陀さまのお慈悲の中に精一杯歩んだ人生。その行き着くところ、到達するところがお浄土のさとりであります。

 このたびのご法要にあわせまして布教大会が開かれ、さらに全国各地でコーラスを楽しんでいる方々による御堂演奏会が行われています。また白洲では、菊の花が最後の美しさを見せています。それぞれに如来さまのお徳を讃えて下さっていることであります。

 私たちもお念仏とともに如来さまを讃えつつ、一日一日を大切に過ごさせていただきましょう。

本願寺新報2004(平成16)年12月20日号より
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