前門様のお言葉

秋の法要(全国門徒総追悼法要) ご門主法話(ご親教)

法話2003/11/23

〝独(ひと)り生まれ 独り死し〟仏教の根本は〝一人称の死〟の解決

 昨日、本日と全国門徒総追悼法要を有縁の皆さまとご一緒におつとめさせていただきました。境内白洲には美しい菊の花が咲き、また堂内ではこのご法要にあわせて布教大会、御堂演奏会が行われます。それぞれに仏縁を味わい、喜ぶありがたい機会でございます。

 この一年も多くの門信徒の方々がお浄土に往生されました。長寿を全うされた方々がいらっしゃる一方で、不慮の事故や病で短すぎる人生を終えられた方々もいらっしゃいます。先立って逝かれた方々が、身をもって示し、教えて下さったことを偲びますとともに、仏法聴聞のご縁と受け取らせていただきたいと思います。

 今日、死について、一人称、二人称、三人称の区別をすることがあります。一人称とは私のことですから、私がこの世を去るということであり、経典には「独り生れ独り死し、独り去り独り来る」(註釈版聖典56頁)と説かれますように、他人には代わってもらえない私のいのちの根本問題です。

 蓮如上人は「後生の一大事」とおっしゃいました。仏教の根本はこの解決にあるといえましょう。ところが現代人には一番考えにくいことでもあります。日々の忙しさや楽しさに紛れて考える余裕がなかったり、あるいは考えたくないので取り繕ってしまったりということになります。

 私も同年代の知人、友人の死に会いながら、なかなか自分のこととして考えることができません。それでもご本願を信じ、お念仏申す身になって往生成仏させていただくのだと聴かせていただくことの大切さを思います。仏さまのお言葉ですから、「はい、ありがとうございます」と聴かせていただくことが大切であります。親鸞聖人のご和讃に「弥陀大悲の誓願を ふかく 信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(同609頁)とあります。

 次に二人称、私にとって「あなた」と呼べるような関係の方々、身近な人の死ということを考えてみますと、今日ではしばしば死を迎えるまでの看病、療養のお世話という大きな課題もありますが、大切な人を失うことは、心の中に、胸の中にぽっかりと空洞、穴があくと表現できるかもしれません。悲しみ、悔やむ心、怒りなど無理におさえ閉じ込めることなく、素直に表すのがよいといわれています。阿弥陀さまの広いお慈悲のおこころに支えられているのだから悲しみがなくなると考えるのではなくて、反対に安心して悲しむことができると受け取るべきでありましょう。

 これらのことからも個人主義の時代であっても、いのちは私個人が好き勝手にできる私物、私だけのものではなくて、大きなつながりの中にある大切ないのちであることが感じられます。お念仏申して往生成仏された方はもちろんのこと、仏縁の浅かった方も広い意味で阿弥陀如来さまのお慈悲の中にいらっしゃいます。お念仏申して故人を偲ばせていただきたいと思います。

 三人称の死とは先に申しました方々以外の死でありますから、通常はお気の毒に、残念なことですと言って終わってしまいがちでありますが、私の人生にとってどのようなことを教えて下さったのかということを、大切にしたいと思います。

 さらに広く考えますと見知らぬ人々、遠い外国の人々も含まれます。いちいち想像していては生きていられないともいえますけれども、戦争や飢饉(ききん)、事故など、たとえ人ごとでも単純に見過ごすわけにはいきません。地球上の人類が平和に、穏やかに人生を全うできる世の中を目指すところに仏教の大きな理想があります。

 また、仏教の基本である縁起の教えは、この世のあらゆる事柄が互いに支え合い、依り合って成り立っているということでありますから、私の人生と遠くの戦乱や貧困で失われていくいのちとは無関係ではありません。特に日本では衣食をはじめ、さまざまなものを外国から輸入していますので、このことはよりよく理解できるのではないでしょうか。

 親鸞聖人はご和讃に、「像末五濁(ぞうまつごじょく)の世となりて、釈迦の遺教(ゆいきょう)かくれしむ 弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり」(同603頁)とうたわれ、濁りの世の中を本当に生き抜く道は念仏往生の道であることを教えて下さいました。

 一つひとつのいのちには限りがあります。そうだからこそ限りない阿弥陀如来さまの光の中に、恵まれたひととき、ひとときをお念仏申して精いっぱい生き抜きたいものであります。

合掌

本願寺新報2003(平成15)年12月20日号より
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